トップページに戻る

 目次に戻る

 

「月刊少林寺拳法」11月号 

       ザ・プラクティス「信念」

 

       長野県南相木村診療所所長 いろひらてつろう 色平哲郎氏

 

色平哲郎プロフィール

一九六〇年神奈川県生まれ。東大中退後、国内外を放浪。

その後、医師を目指し京都大学医学部へ入学。

大学を卒業後、長野県厚生連・佐久総合病院、京都大学医学部付属病院などを経て、

長野県南佐久郡南牧村野辺山へき地診療所長。

九八年から隣の南相木(みなみあいき)村の初代診療所長。

内科医として務めるかたわら、外国人HIV感染者・発症者への生活支援、帰国支援な

どに取り組み、九五年タイ政府より表彰される。

民間NPO「佐久地域国際連帯市民の会:アイザック」事務局長。

 

 

あらためてテープ起こしを読み直してみると、色平さんのとんでもない方に向かってい

く話も、実は最後のところできちんとした結語を迎えている。

早口でとんでもなく脱線していく話ぶりだけに気をとられていると、

すこし変わった人・・という印象しか受けない。

が、実は溢れる思いに忠実な人なのだ。

そして話ぶりだけでなく、自身の思いに忠実に行動するパワー溢れる人でもあった。

 

タイトル

“人は変わる”という信念、それが私にとっての”信念”です

 

 

 

 

 

必要だと実感できたときだけ勉強する

 

・・現在、お医者さんになられているわけですが、

中学、高校時代はお医者さんになるなんて、全く考えていなかったそうですね。

 

色平 むしろ医者にはなりたくない、と思っていました。

反感を持っていたわけではないけれど、なるべきものではない、と思っていました。

 

・・どうしてですか。

 

色平 中学、高校と進学校で、同級生の半数近くが東大に入るような高校だったんです

。医学部にもすいぶん入学していました。

ある時同級生の家に遊びに行くと、自分とは全然違うレベルの生活があったんです。

どうしてこんな大きな家に住めるんだろう。

どうしてこんなデラックスな生活ができるんだろうと。

私のようなサラリーマンの家庭からはそんなレベルの生活は思いもよりません。

 

 まあ、子どものころすでに社会の階層はできあがっていたと思うんですが、

世間知らずで私にはわからなかったんですね。

でも、段々にそれがわかってきた。

その家はお医者さんの家だったんです。

あれだけ広い屋敷に住んで、例えば本棚に並ぶ本も違う。

私も本好きだったけれど、その家には図書館でしかお目にかかれない本がたくさん置い

てありました。

 

 恵まれているなあ、と思ったけれど、こういう連中が医者なのだとすれば、妙な奴ら

だと。

私は病弱じゃなかったから、直接頭を下げる必要はなかったのですが、

まあ医者にはなるもんじゃない、と思ったのが、中学、高校のときの素直な気持ちだっ

たんです。

 

・・それで、東大の工学部を受けた?

 

色平 まずは親元を離れ、自活して生活しようと考え、大学の理科を受験しました。

 

 本当は史学や民俗学、人類学のような勉強をしてみたかったんですが、

それは「趣味」でやったほうが楽しいだろう。

そんなんで飯食ったらつまらんだろうと(笑)。

それで理科系の勉強を続けるべきだと考えました。

それに理科の学問は、その場にいないと実験や観測ができないものですから。

 

 そんな気持ちではじめてはみたんですが、このまま行っても工場の技術者か企業の研

究者。

一般的にはエリートなんでしょうけれど、そういう世間の狭いのはつまらんと・・。

 

・・それは入学してから、どれくらいで?

 

色平 二年目くらいにはそういう気分になっていましたね。

どうもこういう道のりは嫌だなあと思っていた。

 

 で、二年生の夏休みに東京から新潟まで歩いて行ったり、さまざまなチャレンジを始

めたんです。

自分の身体で感じる距離感というのはどんなものか。

峠道というのはいったいどんな坂道か。

新潟は母のふるさとですけれど、明らかに“表日本”ではないということを、

峠を歩いて越えることで得心できました。

峠を越えると、そこは雪国でした。

信州にはじめて来たのも、その当時のこと。

埼玉県最奥の大滝村から歩いて登って、十文字峠まで来たときに、ああ、ここが信州だ

と・・。

 

・・すごく実感できたでしょうね。歩いて、登って、汗流して・・。

 

色平 そうです。甲武信(こぶし)岳に登って、ああ、ここから流れ出した信濃川(千

曲川)の水が

母の故郷の越後、つまり新潟県の百姓である私の一族の田んぼまで届いているんだって

・・。

 

 私は納得ができて、本当に必要だ、と実感できたときから勉強をはじめるのが好きで

す。

それこそが本当の勉強だと思っている人間です。

なぜだかよくはわからないが、このやり方をただ覚えろとか、早く覚えたからあんたは

偉いとか、

点数がいいから君はちょっと別格なんだとか、だから鼻高くふるまっても周囲もそれを

許しているとか、

そういうバカげたことは嫌いなんです。

そんなこだわりが小学生のころからありましたね。

 

 新潟まで歩いていくということ。

それは、私が小さいころから通って、ここはいいところだなあと感じていた新潟の田舎

の生活。

そして現に暮らしている東京での生活。

この二つしか知らないでいる自分。

この両者の間を実際に歩いて線で結んでみようとすれば、こんな苦労や出会いがあるん

だ、

というふうに、実感してみたかったんです。

勉強と同じように、必要だと思ったからこそ、「歩く旅」に取り組みました。

 

・・小学校時代には漢字は覚える必要がないと、漢字の試験では○×を書いて通したと

か、

九九も覚えなかったとか・・。

 

色平 九九は今でも全部言えないですよ(笑)。

だって、九九はいらないでしょ。

半分覚えりゃいいはずなんですよ。

九の段は九×九=八一だけでいいんです。

だって、九の段の前半は全部前に裏返しでやっているんだから。

 

・・そうですね。

色平 覚えないでいて不利益をこうむるのは、そろばんで掛け算をやるときだけ。

筆算のときは大丈夫。慎重にやれば間違わないです。

油断して緊張感なしでふつうにやるより、むしろ正しい答えが出るんじゃないでしょう

か。

 

 ただ、このような私なりのこだわりは当時ほとんど理解されなかった。

先生方は、なぜ九九を覚えないのかと。

それに対して、「いらないからだ」と小学生が答えられたら、怒られてしまう。

漢字をなぜ覚えないと聞かれると、それも「今の自分に必要なこととは思えない」と。

先生にしたら、それは子どもが判断すべき事柄ではない、と言いたいでしょうね。

両親もそう思ったかもしれないけれど、

うちの親はそんなことであまりうるさく言わない人だったので助かりました(笑)。

 

 で、旅の話の続きをすると、シベリア鉄道に乗って、ヨーロッパまで二回行きました

。さすがにユーラシア大陸を徒歩や馬で、という旅は冷戦下では無理でしたが、

毎日ゆったりとほとんど変化しない景色の中を旅するという点で、同じような魅力を感

じました。

 

・・で、結局大学を中退しちゃう。

 

色平 ええ。ヨーロッパから帰ってきた後でした。

大学三年のとき二十一で辞めました。

その後は家出をして完全な放浪生活。

長くひもじい徒歩旅行で手持ちの金を使い果たし、キャバレーでボーイとして拾っても

らったり、

ピアノを弾いたりしながら・・。

 

・・そんな生活がどれくらい続いたんですか。

 

色平 このときは一年四か月くらいです。

その後もたびたび「旅」にでましたが、私の青春時代でした。

居所も何も知らせなかったから、ずいぶん親不孝をしたものだと思います。

 

 

 

 

医者は気になる存在だった

 

・・放浪の後に再度、大学を目指された理由というのは?

 

色平 ふらふらしているときのこと。

私は「修羅場」に強い人間ではないのだが、どうすれば修羅場になっても乗り越えて生

きていけるか、

こんなことを真剣に考えました。

この友人と一緒に行動すれば危なくない、とか「危機管理」とでもいうべきか、

生き残りの方策をまず最初に考えてみる習慣がつきました。

 

 また、場末(ばすえ)と言われるようなところで、

人々がどのような形で救いようのない事態に陥っていくのか。

ふるさとに帰りたいというのに、錦を飾れないというので帰れずにいる、

そうしたうっくつした人間の感情についても学びました。

私自身には帰る家がありましたけれど、

この、ふるさとに帰れずにいる人々がいったいどんな思いで

どうふるまうのか、こういったことに思いを致す体験をいくつか積みました。

すると単なる進路選択ではない「覚悟」のようなものが生まれてきたんです。

 

 生き残るために、ときにはなにかにしがみついてでも頑張り通さなければならない、

あるいは目の前の相手を倒さなければ生き残り難いような状況もあった。

でも、本当は、相手にうち勝つ、などというより、

自分にうち勝つことによってこそ一つの壁を越え得る。

あるいは明らかに壁だったはずのものが壁でなくなる体験であったのだと、今に振り返

って思い起こします。

 

 少林寺拳法を学ばれる方々は“半ばは自己の、半ばは他人の”との教えを胸に刻んだ

方々、

つまり実践的な志向性の持ち主でおいでになるからこそ、以下のお話しをいたします。

実践そのものを修行や行ととらえてお考えになっている方からしたら、

それでは修行が単なる行であってよいのだろうか、という問いです。

この問いこそ若いころの未熟な私が、親不幸しながら追求した大きなテーマだったんで

す。

 

 さまざまなぶつかりの体験を経て、ある覚悟を持って、もう一度学校に戻ろうと決心

しました。

北大でロシア語を学んで、ユーラシア大陸のシベリア少数民族や先住民の生き方から学

ぶか、

京大の医科に入って医者になるか、二つで迷いました。

結局、上方(かみがた)の京都に行くことにしました。

この選択によって、ふるさとの新潟や東京などの東国(とうごく)にいては理解しきれ

ない

日本文化の本質的なものを垣間見ることができました。

 

・・では、医学部に行こうと決意された理由というのは何だったんですか。

 

色平 違和感はあったんです。

けれども、医者というのはずっと「気になる存在」だった。

どうして連中はこんなに鼻が高いのか。

それは医者個人のバカさ加減だとは思うのだけれど、それを許容している世間が、

医療や医者に対してどういう感覚、まなざしを持っているのか、

こういったことに関心を抱きました。

 

 つまり、構造的なところに関心を持ったんです。

自分が医者になってしまうことによって、まなざしが内側に据えられてしまって

見えなくなってしまう部分があるのかもしれないけれど、

医者になる勉強をしてみることによって、どのくらい実はしょうもない世界なのか、

あるいはどれくらい必然的にも鼻が高くなるだけの実質が伴っているものなのか、

わかるかもしれないと。

 

 実際にこの業界に入ってみると、医学そのものはまあ、大したことはないと。

しかし、大したことはないんだが、医者というものがまた学問とは別だての「権威」と

して

世の中で通用し受け入れられていて、しかも頼りにもされている。

その分厳しい「要請」もあるんだけど、期待もこめて、とのことであることを知った。

 

 このことが私にとって、新たな“学び”のきっかけになったんです。

 

・・新たな“学び”?

 

色平 そうです。

 

 今、私は信州の南相木村という山の村にいて、診療所長をやっています。

男前でもなく、何をしゃべっているのかよくわからないような中年男のところに、

毎年たくさんの医学生や看護学生、女子学生たちが話を聞きにやって来る。

村人からみると、なんであんなに女の子にもてるんだ、と思っておいでのようです(笑

)。

 

 村人からすると、医者としてある程度役には立つし、それに家族持ちだから、

それほどおかしな奴でもないだろうと。

毎年、二百人も若い連中がやって来ている。

多少おかしなことではあっても、それなりのもんだろう、という評価になるわけでしょ

うね。

そうなると、「医者ですよ」との紹介だけで、ある程度の信用を得、

乗り越えてしまっている部分があるわけです。

それは甘さにもつながるわけですが。

 

 とても便利な紹介のされ方なんだけれど、すごく甘い。

単なる一人の人間として、何の裏付けもなしにこうした山村に入ったとき、

一定の理解と認知を得るまでにいったいどれくらいの努力と時間がかかるものか、、、

村内の位置づけとしては、どの程度のものと考えられるものか、、、

こんなことすべてをはしょってしまっていることになりますからね。

このはしょって飛び越えた部分の「闇」がどのくらい深いのか。

それを考えるだけでも、恐ろしいと同時に興味深い。

 

 そして、私自身がそうだったように、まだ学生であって、何でもない、

役にも立たないような存在であったときも、「旅」の途上で人々は世話をやいてくれた

 例えば、医学生のころ、タイに行って、現地の人々に大変お世話になった。

フィリピンでも世話になった。お金の問題ではなかった。

彼らにお世話いただかない限り、私なりの「旅」を続けることはできなかった。

そんな旅の経験、感謝の気持ちをもって日本に戻り、日本に来ているタイ人やフィリピ

ン人に出会うと、

彼らに対して「何かできることはありますか?」自然にそうなったわけです。

このような「ご縁」がつながって、結局自分にも戻ってくるというような「関係性」が

発見できて

とても面白いじゃないですか。

決して他人のためだけにでなく、自分にとっても楽しいような、

自分が生かされる場に出会えたという感覚でしょうか。

 

 このような境地(?)にまで一気に到達するのに、お医者さんであることで楽なとこ

ろがある。

また楽ではあるが、一方には厳しいところもある。

夜中に村人のだれかのお腹が痛くなったとする。

すると私は往診し、すばやくしかも正しい判断をしてあげなければならないわけです。

 

 診療所長として、さまざまな有象無象の中で「うまくやって」いかなければならない

。そのためには、さまざまな人の話を聞き、もっともっと世間を広く持たないといけな

い、このような日々のチャレンジが眼前にあります。

 

 村内の多様な人々と接点を持つことのできるポジションにいることで、とても勉強に

なった。

しかし一方には、お医者さんの視点からは見落としがちな、世間からのまなざしもある

。そんなまなざしの一つには、私が子どものころ気付いたあの、「ヘンに鼻の高い連中

だな」

というまなざしもあるんだろうと。

 

 ここまでをやっと気付くために、医学部に行き、卒業して、いろいろ揉まれなければ

ならなかった。

まあ、私は勘が鈍いというか、洞察力があんまりないので、

やってみてぶつかって初めてわかったということなんです。

 

 

 

 

プライマリー・ヘルス・ケア(PHC)とは?

 

・・色平さんが無医村での医者を志望するようになったのは、どうしてなんですか。

 

色平 「無医村の医者」というのは形容矛盾なんです。

無医村っていうのは「医者のいないところ」という意味ですから。

医学生のとき私は何度かフィリピンを旅して、バングラデシュ出身のバブさん

(スマナ・バルア医師)と出会いました。

バブさんは、優れた人物で、今も私の人生での様々な相談相手になってくれている友人

です。

私よりも日本語の話が上手な人です。

 

 バブさんとはフィリピンのレイテ島で出会ったんですが、

地域に臨床医が一人もいないような無医地区で、彼ら医学生たちは保健婦や助産婦のよ

うな地域活動に取り組んでいた。

私もそこに参加させてもらったんですが、困ったことに日本の医学生である自分は、

現場で全然役に立たないことが分かったんです。

 

 このとき私は、恥ずかしさとともに、日本の専門教育が

現場や民衆の生活からいかにかけ離れたところにあるのか、ということを痛感させられ

ました。

勉強が進んでいないうちは、自分の目線でしか物事が見えない。

でも、わざわざ日常からかけ離れたところを旅してそこの現実から学ぶことによって、

自分の目線とは異なる視線の存在を知る。

旅から戻ってからは、体験した複数のまなざしをきちんと見据えるためにこそ、

さらに深く学んでみたいものだと思いました。

 

 フィリピンから帰ってからは、日本の医療についても、農村から見た大学での、

あるいは地域から見た病院や施設での医療について、それらがいったいどう見えている

のか。

こうした関心が、私が無医村の医者になるきっかけになりました。

 

 私は無医村にいて、プライマリー・ヘルス・ケアに取り組みたいと考えているんです

・・プライマリー・ヘルス・ケア?

 

色平 最初に申し上げておきたいのは、日本には、まったく意味の異なる、

(ヘルスの入らない)プライマリー・ケアという言葉があるんです。

正確にはプライマリー・メディカル・ケアというべきものですが、

あくまで医者の取り組む”一次医療”という言葉なんです。

メディカルという言葉は医師を指しています。

 

 ですから、プライマリー・ヘルス・ケア(PHC)とは何かといえば、

「医者のいないところ」で取り組まれる”0次医療”とでも表現できましょうか。

 

 現在そんな状況は日本国内においては珍しくなったわけでしょうね。

しかし、それほど遠くない過去にはそこここの山や島にあった。

そのひとつが長野県における佐久病院の取り組みであったのでしょう。

佐久病院が創立されたころ、周囲はほとんど無医村であったし、

医者の数もまったく不足していた。

手術もなかなかできない状況であったので、治療可能な病気であっても人々はみすみす

命を落としていた。

そんな中で佐久病院は地域の中に入って、プライマリー・ヘルス・ケアの取り組みを

この五十数年にわたって続けてきました。

 

 私はプライマリー・ヘルス・ケアというものを、(医療関係者だからできる!という

ものでなく)

「人間として人間の世話をする、当たり前のこと」というふうに定義したいものだ、と

考えています。

 

 「人間として人間の世話をする」という当たり前のケアからは、

例えばマザー・テレサのカルカッタでの仕事を思い起こしますが、

医者などが出現するはるか以前から数千年間にわたって人類が取り組んできたことなん

です。

つい最近になって「専門家」としてのお医者さんが鼻高々に登場してきましたけれど、

大したことではない。

 

 大地震後の破壊された神戸市にあっては、日本の医者はほとんど役に立たなかった。

ライフ・ラインが麻痺した状態でも、目の前の人々の役に立つ知恵や技とは何か。

それは例えば、按摩さんであったり、やさしいまなざしであったり、声掛けであったり

する。

医者には不得意な部分なわけでしょう。

でも私としては、自分の放浪体験を通じて、こういったやさしさの重要性に気づかされ

ました。

 

・・具体的にはどのような活動をされているんですか。

 

色平 例えば、訪れる人のいない、一人暮らしのおじいさん、おばあさんのところに行

って、

いろいろな話を伺う。

私にとってとても大きな学びの機会になっているんですが、彼らにはそれぞれの「もの

がたり」がある。

苦労話が多いんですが、そんな話をしてくれているうちに、みんな段々顔が火照ってく

るんですよ。

その人の人生がもっとも輝かしかった時期のできごとであり、話しているうちにその時

代に戻るんでしょうね。

私はこれを“おもいで療法”と呼んでいるんですが、自分の思い出を語っているうちに

おじいさん、

おばあさんが元気になっていくんです。

 

 そうした話はまた、聞いているうちに、すべてが自分に返ってくるんです。

鏡としての自分に・・。

 

・・鏡?

 

色平 そういう昔話であれば、本来は自分自身の根っこ(アイデンティティー)の問題

として、

自分のおじいさんやおばあさんに尋ねればよいのでしょうけれど、なかなか気恥ずかし

くてできずにいます。

 

自分は誰なのか?

どこから来たのか?

今自分はどこいて、そしてどこに向かって行くのか?

どうやってそこに到達し、何をしようというのか?

 

もっと言えば、結局のところ自分は何によって「記憶されたい」のか?

こんな問いになるのでしょうか。

自問してみましょう。なかなか苦しいものですよ。

 

 だれもがそうでしょうね。私自身もそうです。

医者の立場とかいったそんなことがらを越えて、人間としていったいどういう人であっ

たと人々に、

ムラビトに記憶されることになるのか・・とても気になるところです。

このような実践に「人間として人間の世話をすること」を通じて取り組んでいけたら、

すばらしいことなんじゃないかと思うんですが。

私のところにおいでになる医学生たちに、そういったことを申し上げると目を見開いて

お聞きになるんです。

私が最初からすべてに気付いていたわけではない。

いろいろガタガタぶつかりながら、出会いによって少しずつ気付かされた、ということ

でしょうか。

 

・・最後に、色平さんの信念というのは?

 

色平 女房に言わせれば、あなたほど信念の薄い人はいないと(笑)。

 

 この間も夫婦喧嘩した後で仲直りしたとき、

あんたが唯一いいと思うのは、固まっていないところ、こうでなきゃいけないというこ

とのないところ、だって。

女房に言わせると、あなたのところにたくさん学生さんが来たり、取材に来たりしてい

るけど、

みんなあなたのことを誤解しているんじゃないのって(笑)。

で、今回は“信念”というテーマで取材を受けると話したら、女房はケラケラ笑って、

あなたぐらい信念という言葉から遠い人はいない、何かに固まろうという傾向のない人

もいないわよって(笑)。

 

 でも、私にすれば、毎日が“学び”だとすれば、人は変わらざるを得ないわけ。

 

・・あっ、それはそうですね。

 

色平 つまり、「変われる」信念、というと矛盾した言いまわしなんだろうけれど、

「絶えず自己解体を繰り返していく」ことに恥じない人間であれば、

日々、世間や世界の広さから学んでいくことが可能であろうと。

 

 “人は変わる”という信念、よくも悪くもヒトは変わる、ということ。

このことが自分にとっての信念であろうか、と考えています。

また長い目でみれば、硬い信念があるようにみえる人にしても、

歳月とともに移り変わっていく方がむしろ自然なのではないでしょうか。

 

(二〇〇〇年九月二十日、長野県・南相木村診療所にて)

 

 

 

 

トップページに戻る

 目次に戻る

inserted by FC2 system