板画のあとがき


 地元の高校を出て東京へ行き、二十年ぶりで生まれた村へ帰って棲むことにした。
江戸時代の漢方の医者の屋敷が空き家となり、お化け屋敷になっていた。引っ越して
間もなく村の年寄りがやってきて「おめさんは、まあ半分ヨソモンで、半分村のモン
ていうこんだらず」と、笑って云った。

 それから二十年近く、村八分ならぬ村半分でやってきた。長男に非ざる者が、分家
に出してもらうわけでもなく、ノコノコ生まれた村に戻って棲みつくなんて、あまり
聞かない話だったのだろう。村に棲むということは、村について深く考えないことだ
と思っていた。けれども村が少しずつ壊れてゆく実感の中で私は暮らしてきた。

「色平さんは、知る人ぞ知る――という人で、南相木村の診療所の若いお医者さんで
す。色平さんの連載エッセイに板画でカットを彫れませんか。文章を説明する挿絵で
はなくて、自由に彫って下さい」

 とつぜんに新聞連載のエッセイの板画を彫ることになった。仕事を引き受けたもの
の色平哲郎さんのことも知らないし、それから色平さんの住む南相木村も一度も行っ
たことがなかった。千曲川を逆にのぼってゆき、ともかく村を一目見たいと思って出
かけた。村の中をウロウロ歩き、ようやく春めいてきた空気を吸って帰ってきた。大
きな墓群が立派で目についた。

 板画は強い絵なので、なによりも色平さんのエッセイを「ここ掘れワンワン」と指
し示すことが出来ればよいと思った。板画らしさや面白さを楽しんでもらうようにし
よう――というより自分が思いきり遊んで楽しもうと心に決めた。

 色平さんのエッセイは、いわば直球一本槍の胸のすくような文章で、あちこちから
好評の声があがった。板画も喜んでもらって「全然関係のない板画と文章なのに、な
んとなく合うから不思議ですね」と編集の人も首をかしげて笑った。半年くらいの予
定で始まったのが、一年半余、六十八回も続いた。

 しかし、この間に田中康夫長野県知事が誕生し、悪夢のような「9・11テロ」、さ
らにアフガン空爆と続き、スサマジイ二十一世紀のスタートとなった。

「これからはミジメ、マズシク、ダラシナク・ヘコタレテ生きるのが正しい生き方で
すよ」と、投げやりに私が云うと、色平さんは面白がって手のひらにボールペンでメ
モしながら笑い出した。しかし、色平さんは時代からも世界からも地域からも目をそ
むけることもない。

 人間がものを考えて生きるというのは、こういうことなのだと思う。

                        森 貘郎(ばくろう)

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