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        旅の途中で

 

                車いすの青年が「ハロー」

 

 

1981年、21歳の夏。

ヨーロッパ旅行の途中、

英国からベルギーへ渡るフェリーで、

ポーランド人の老夫婦に出会った。

話をしていると、亡命者であることがわかった。

 

夫は第二次大戦の前、ポーランド空軍のパイロットだったそうだ。

 

祖国がナチスドイツとソ連につぶされて二度目の世界大戦が始まった時、

彼は、ポーランド軍の基地から飛行機を盗んで、ルーマニア経由でマルタ島に逃げた。

そして大戦中は、ロンドン上空でナチスドイツの空軍と戦ったという。

 

彼はそのまま、祖国ポーランドへは帰れなくなってしまった。

彼が忠誠を誓ったポーランドのロンドン亡命政府は、

大戦後に共産化された祖国で「非合法」とされたのだ。

 

今回の船旅は、娘のひとりがベルギーに嫁いでいるので、

孫の顔を見に行く途中だ、とのことだった。

 

1989年、ベルリンの壁が崩れた。

私は、あの白髪の老夫婦を想い出した。

存命でさえあれば、彼らは、待望の祖国へ帰ることができるのだと。

 

 

オランダ・アムステルダムの街には忘れられない想い出がある。

 

駆け足旅行だったのに、強い印象として残っているのは、

車いすの青年と言葉を交わしたからだ。

 

もちろん、車いすを見たのが初めてだったわけではない。

それでも、日本の街中で車いすを見かけたことはほとんど記憶になかったし、

さらに、金髪の若い男性を乗せた車椅子が、何人かの通行人に担がれ、

人波をかきわけながらこちらに向かってくる姿は、

仮に忘れようと思っても忘れられるものではなかった。

 

彼に出会った場所は、駅前の路上の工事現場だった。

地下鉄工事のため、地面が大きく段差になっているところがあった。

そこで何人かの通行人が、彼を車いすごと持ち上げて運んでいたのだった。

私は、目を見張ったまま立ち止まっていたようだ。

 

「ハロー」

 

すぐとなりに着地した彼から声をかけられ、私は我に返り彼と話した。

彼が二十歳の大学生で、バスと地下鉄を乗り継いで毎日通学していると聞いて、

「ヨーロッパはすごいな」と思った。

なぜなら、たった今、私が呆然(ぼうぜん)と見ていた

「通行人が車いすを担ぐ」といった行為は、

彼が毎日通学する途上で、日に何度も繰り返されている光景だ、

ということに気づいたからだ。

 

最近日本で話題になった「五体不満足」という本があったが、

アムステルダムの彼は片手片足だった。

足は動かないようだった。

握手もできたし、さらに「車の運転もできる」と言ったのにはびっくりした。

私は、祖母の一人が目が不自由だったので、

日本における身体障害者の生活世界を少しだけ知っていた。

 

「日本では想像もつかない自立した生活だね」と彼に言った。

「周囲の健常者が支えてくれているのさ」と彼はこともなげに答えたが、

ヨーロッパ社会が持つ、社会的弱者へのまなざしの優しさを強烈に見せられた思いがし

た。

 

後で考えてみると、彼との立ち話はほんの五分に満たない程度だったと思う。

金髪の彼は「それじゃ、いい旅を」と英語で言い残して、すっと去って行った。

衝撃を受けた私は、しばらくその場から動けずにいた。

 

 

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