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        ヨーロッパ旅行

 

                   国と人 抱える問題も様々

 

 

1981年、21歳の夏。

ヨーロッパへの旅の途中、私は、シベリア鉄道に揺られていた。

 

ハバロフスクを出て一週間。

モスクワを経てたどり着いたのは、ヴィボルグという、

フィンランド国境にある乗換え駅の街だった。

車内で暮らした一週間、ロシア人の夫婦やモンゴル人の大学生……

様々な人たちと出会った。

ひしめき合うさまざまな人種・民族の顔、なけなしの飲み物、食べ物をも分け合う、

底無しの人のよさ。

彼らの人情に、とても感動していた私だった。

 

しかし一方で、軍人が闊歩(かっぽ)し、役人がいばりくさって、

強く主張しなければ、コネがなければ何も聞いてもらえない社会。

金があっても客ではなく、叫ばなければ、モノを売ってもらえない社会。

何度「パチェムーニェット!(なんで売ってくれないんだ!)」と叫んだことだったか

……。

 

客車の床板をはずし、警棒を使い天井板の上まで探り、持ち物をひっくりかえす……。

国境を前にした列車内では、制服姿の警備兵たちによる極めて暴力的な検問が行われて

いた。

ロシアでの不快な思い出も、決して忘れさせないかのような執拗さぶりに、

私は「また訪れて、あの人情味にふれたい」という気持ちと、

「もうたくさんだ」という気持ちが、ないまぜになっていた。

 

 

フィンランドに入って最初の街はタリン。

拍子抜けだった。

街がとてもきれいだ。

ものに触ると指先が黒く汚れるロシアと違って、油じみたベタベタした感触がない。

ひとびとが、街をゆったりと歩いている……。

「この違いは、一体なんだ!」

 

憤るような感覚に、自分自身でびっくりした。

慣れとは恐ろしい。

生存競争の厳しいロシアで過ごした二週間、

いつの間にかにか「ロシア流」にすっかり染まってしまっていたようだ。

 

一番驚いたのは、歩道に私が立ち止まっていると、

車道を通りかかった車がスッと止まったことだ。

何のことか、しばらく意味が分からなかった。

つまり、東洋人の私が車道を横断するようなら、

と運転手が車を止めてくれたのであった。

「自由の国ヨーロッパ」を意識した瞬間だった。

 

 

北海を渡って英国はロンドンへ。

下町のイーストエンドはお祭り騒ぎだった。

すぐそばのセントポール大聖堂で、チャールズ皇太子とダイアナの結婚式があったころだ。

 

下町の住人は、ほとんどが白人ではないようだった。

宿を出て歩き回っていて出会った色の黒い若者の一団は、

カリブ海の島国ハイチからの亡命者だった。

「ハイチ=フランス語圏」という知識とはよそに、

お互いへたな英語でしゃべりあった。

 

「祖国は独裁下で生きられない。

英国は受け入れてくれた。

とても感謝している。

しかし英国人は大嫌いだ」

 

「???」

 

「英国人はわれわれを”二級市民”と見ている。

われわれは愛国者である。

それゆえデュバリエ政権下では殺される。

仕方なく逃げてきた。

今僕らは英語でしゃべっているけれど、英語も大嫌いだ。」

 

言葉に尽せない言葉だった。

 

政治的立場や歴史的結びつきを超えて亡命者を受け入れ、

英語教育を施す英国の度量の寛(ひろ)さ、

それに伴う苦悩の深さを垣間見たような気がした。

 

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