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         「肉なし」カレー

 

               ウサギは美味し、ふるさとよ

 

 

僕は初代の診療所長として三年前に、ここ南相木村へ家族で赴任した。

北の御座(おぐら)山、南の天狗山の四季の装いも、見慣れたものになった。

 

山の幸を近所の人から頂くことがある。

一昨年秋のマツタケ四十本は、私たち一家では食べきれなかった。

シカの肉は、狩猟許可の診断書を発行した僕への土産というよりも、

山で暮らす男としての「腕前の披露」の意味が多分に込められていたような気がした。

 

村の十の集落は、昔はほとんどの家が林業と養蚕で生計を立てていた。

いまでは町まで舗装された道路が通り、町場(まちば)で商売を始めて成功している人

もいる。

高原野菜などで「億」を超える年収の農家もある。

山の村にも「お金を介した関係」が確実に浸透している。

 

 

診療所にはお年寄りの相手が上手な看護婦さんがいてくれるので、

いろいろ助けてもらっている。

僕と同い年の四十歳のその看護婦さんは、隣の村で育ち、隣村の男性と結婚し、

この村で働いている。

 

彼女は小学校四年まで山の分校に通っていた。

二十数年前に廃校になったが、三十年前は、分教場に彼女たちの元気な喚声があふれて

いた。

 

当時すでに学校給食が行われていて、

ふだん家庭では口にできないカレーライスやスパゲティも食べることができた。

台所を仕切っているおばあちゃんやおかあさんは、

そんな食べ物はつくらなかったから、子どもたちは給食を楽しみにしていた。

戦後、味覚が変わり始めたころの話である。

 

そんな時代だったから、給食代はお金で払う必要はなかった。

野菜を三キロ、現物納入すれば、それがそのままおかずになった。

「お金を介さない関係」が生きていたのである。

 

しかし、ふだん、カレーの中に肉はなかった。

牛や馬はそこら中にいたが、家畜は食料ではなく、運搬用であり、

農作業の貴重な労働力であった。

そのため、分校の子どもたちは雪の積もった山の尾根を駆け上り、兎(うさぎ)を追っ

た。

 

「ここから先は追ってはいけない」と先生が指示したところまで追うと、

上から鉄砲を抱えた大人たちが「パンパン」と撃つ。

兎に当たれば「肉入りカレー」、外れれば「肉なしカレー」だったと彼女は笑った。

“兎追いしあの山”は、彼女にとっては、自分の生活そのものだった。

 

 

分校の友だちと雪山に兎を追った少女は、

中学を卒業すると佐久平の看護学校に入った。

 

「町場はすごい」。

看護学校の同級生と話をしていても、「田舎者というより外れ者の気がした」。

就職先では、定年間近のベテラン看護婦たちとは話が合った。

「町場の四十年前の世界に、自分は暮らしていたんだ」と思ったという。

 

その彼女も今は、自分が子どものころ大人たちから教えてもらったように、

自分の子どもと山へ入り、「あそこに岩茸(いわたけ)があるんだよ」と伝えている。

どんな意味があるのかもわからずに教えられたことが、

いま彼女には、とても大切なものになっている。

 

都会に育った人間は、何につけても「いくらだろうな?」と、ついつい考えてしまう。

しかし、そうなる以前、人間関係の中で「自分がやれることは、できるだけやってあげよう」

とした関係、「お金を介さない関係」が少し前の日本にも確かにあったのだ。

 

いま、雪山の尾根に、兎を追う子どもの姿は見かけない。

 

 

 

 

 

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