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         ムラ医者の誕生

 

                放浪で出あった互助の心

 

 

はじめての海外旅行は、ヨーロッパだった。

 

当時の私は二十一歳、

介護や社会福祉にほとんど関心をもっておらず、

単なる観光旅行のつもりだった。

それだけに、いくつかのヨーロッパ諸国の社会で、

単に障害者や弱者への施策としてだけではなく、

亡命者や少数者に対しても共通にあふれていた

「まなざしのあたたかさ」にずいぶん驚き、衝撃に感じ、

強い印象が脳裡に刻まれた。

 

介護や社会福祉、マイノリティーの問題などについて、

どこか市民たち自らが自分の問題として考え、

人任せにしないで自前でとりくむ、

というヨーロッパ諸国に共通する姿勢に、

国境の線こそあれヨーロッパは確かにひと続きの社会である、

と実感した。

 

ヨーロッパから帰国した私は、

そのまま大学を卒業して社会に出ることにあきたらなくなった。

親不孝とは思ったのだが……、思い切って大学を中退して、

進む道を求め、国外国内を数年間放浪して歩いた。

 

東南アジアの村々を訪ねる旅では、日本のムラがかつてそうであったような、

互いに助け合う人々の織りなす、共同体としての「ムラの自治」に出会った。

村に住む人から、日々の生活の聞き取りをしながら、

このような自治のありようについて、内実を少しでも学びとるように努めた。

 

この時期のいくつかの出会いがきっかけとなって、

私は消えゆく日本の「ふるさと」、山の村に関心をもつようになった。

 

国内の放浪では、いろいろぶつかりながら、さまざまな人に世話になり、

世間の広さと自分の狭さを実感する旅であった。

 

こんなにも世間が広く、職人の世界をはじめ、

学歴と関係のないところでこんなにも多くの人々が“どっこい”

生きているのであれば、その大海原に入っていきたいものだと願った。

 

それまで医者というのは、なにか鼻が高くて嫌なやつだと思っていた。

しかし漠然とながらも、医学というのはアジアや辺境地に行けば

民衆の役に立つのではないかと考え直した。

それに、広い世間のいろいろな人と付き合ううえで、

医者であることは「とっかかり」になる。

それで医学部に行こうと思いたった。

 

医学校に入って、「人間として人間の世話をする」

という観点に立ってものごとを考えるようになった。

 

すると世俗化した近代ヨーロッパの市民の社会と、

アジアと日本の村々に共通する「ムラの自治」とが重なって、

二重写しに見えるようになった。

 

いずれも「自前でとりくむ」、という姿勢を重視し、

自らの誇りとしている自治のありようであった。

一方は市民革命後の近代社会、他方は封建制度下の農村共同体、とみなされ、

むしろ対極にあるとされてきた両者に共通する何かを発見し得たとき、

私は大変うれしかった。

 

日本のマチは、残念ながら市民の社会とはかけ離れていた。

農山村にかろうじて残った数百年来の「ムラの自治」の中にこそ、

日本における自治的伝統の痕跡を探り得るのかもしれない、と考えた。

日本のムラに家族で住んでムラの医療にとりくみながら、

「ムラの自治」のありようを探求しようと考え、現在に至っている。

 

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