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          老い方の作法

 

                 ムラビト縛る 都市の「網」

 

 

ムラの女衆(おんなしゅう)の本音として、

「息子にはヨメが来てほしいが、娘には都会に出て(都会で暮らして)ほしい」

という、矛盾した表現がある。

 

つまりムラで生活する先輩女性としては、娘には、

自分と同じ農家の嫁としての苦労を味わわせたくないけれども、

農家である以上、「当然、後継ぎの孫は必要だ」というわけだ。

 

つい最近までムラには、「モンダ主義」が当然の如く通用していた。

「ヨメは……するモンダ。息子は……するモンダ。老人は……するモンダ」

 

もちろん、現代社会からの「揺さぶり」は、都市から、

特にテレビを通じてムラにも及んできているから、

ムラのモンダ主義も近年は、ずいぶん変容せざるを得なくなった。

しかし、その変化を身をもって体験してきた現代の女衆ですら、

このような矛盾から脱却出来ずにいる。

 

ムラでは、教育熱心な家ほど、もしかしたら「さびしい老後」をむかえている。

パラドックスである。

 

息子たちは、教育熱心な家庭の雰囲気の中、努力して勉強し、進学して、

そして、大都会で「成功」している。

ムラに住む親にとっては、自慢の息子たちだ。

しかし、それは盆暮れにしか息子や孫たちに会えない、ということと背合わせだ。

 

「成功」はいつも大都会にあり、「成功」を求めるのなら、

少なくとも大家族を張ってムラでくらすことはできない……。

 

 

ムラから見る「大東京」のイメージは、切なく悲しい。

 

 

ある男性が、山奥でのひとり暮しが無理になって、

「大東京」に住む息子のマンションへ引き取られて行った。

しばらくすると彼は「脱走して」ムラへ帰ってきていた。

 

腰とひざの痛みのため、ほとんど自力で歩くことのできないはずの彼が言う。

 

都会ではたき火が自由にできない、きのこ採りにいく山がない、

川で魚を取ることもできない……。

都会の団地でたき火をしたら、誰(だれ)かが通報したのだろう、

警官が火を消しに来て怒鳴られて、ひどく怒られた……。

 

「このままでは呆(ほうけ)てしまうと思って、逃げてきた」

 

痛みを止めるべく対処した後、私は尋ねた。

 

「買い物にも困るだろう。息子さんの所へは戻らないのかい?」

 

「俺(おれ)はここで死んで本望だ」

 

 

都市には、都会人の気づきにくい「管理の網」があるようだ。

 

大自然がもたらす自分たちの生活への制約には慣れっこになっているムラビトも、

この管理の網に身を任せることには無意識の抵抗感を持っているようだ。

それは、その人がその人でありつづけること、

つまり自らのアイデンティティーに対する、なにかしらの束縛と受けとめるからだろうか。

 

ムラビトにとっては、都市の「匿名性」の中での老いを受け入れることより、

ムラの濃厚な「関係性」の中で老いて死ぬことが、当たり前であり至福であるようだ。

 

老い方や死に方には、都市と農村とで明らかに差異があるのだ。

より正確には、老い方や死に方についての作法が異なっている、

というべきなのかもしれないが。

 

 

 

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