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        地雷と眼科医

 

            平和をねじれさせる「構図」

 

タイとビルマ(ミャンマー)の国境に行ったことがある。

一九九六年のことだ。

目の前を流れる小さなモエイ川の向こう側は、悲惨な内戦の戦場だった。

こちら側、タイには食べ物がどっさりある。

平和でのどかな、南国の日常があった。

この落差には愕然(がく・ぜん)としてしまった。

 

実際、歩いて簡単に渡れるこの川の向こう岸の山には、対人地雷が敷設されている。

迫撃砲弾のさく裂音が腹に響く。

対岸のりょう線の向こうに不吉な煙があがっていた。

 

数週間前には、ビルマ兵が嫌がらせに越境して来て、

こちら側の難民キャンプを襲って火をつけたという。

「対岸の火事」ではない。

死者がでて、タイ政府が抗議したと聞いた。

 

 

地雷の被害者に接する機会があった。

私が診療する巡り合わせになったのは、もちろん即死でなかったからである。

即死させない方が「障害者を増やして相手方の戦力をそぐ」

との屁(へ)理屈があるようだ。

 

足を飛ばされた男の子が、川を渡って、診療所に運ばれて来た。

止血はされているが、汚い傷だ。

土くれ、布、木っ端、骨片が肉にくい込んでいる。

化のうしかねない傷んだ部分を十分に取り去って、

骨に沿って最小限にはく離し、神経と血管を処理する。

 

できるだけひざ関節を残して、ひざ下で切断したい。

ひざ関節の有無は、今後のこの子の生活に大いに影響するからだ。

農作業ができるか、乞食(こじき)になるか・・・。

 

だが、ここには十分な麻酔薬も抗生物質もない。

患者は痛みのために叫び動いてしまう。

十分な切断をしきれないと、傷口が化膿(かのう)してしまい、

ひざ関節上で切り落とすどころか、股関節(こかんせつ)下で落とすことになってし

まう。

 

 

子どもの好きなおもちゃのような形をした小さな地雷兵器こそ、悪魔的である。

触れた子どもの手首を飛ばすだけでなく、目を傷つける。

 

難民キャンプに眼科医がいることはまずない。

眼科医がいないことは、難民キャンプの医療活動で、弱点のひとつとされている。

手足の外科手術に対処する以外に能のない「現場」の自分にとって、

失明という無力感はひとしおであった。

広い意味での「政治」に期待をかけるしかない、と真剣に祈らざるを得なかった。

 

大河サルウィンの支流であるこのモエイ川の対岸も、

元々はのどかな山の村で平和な百姓の世界だった、と聞いた。

何が百姓たちの生活をねじれたものにしてしまったのか、

背後にある「構造」を考えずにいられなかった。

 

 

わが日本ののどかな山村でも、平和な生活がねじれた時代があった。

 

戦前、信州からは、多くの人々が、旧満州の「開拓」へと海を越えていった。

なぜ彼らは旧満州に渡らねばならなかったのか。

なぜ引き揚げのときに多くの人が死ぬことになったのか。

なぜ抑留によってシベリアの炭鉱で働くことになったのか・・・。

 

 

私のムラの年配の患者さんには、

若いころ「難民」になった体験をお持ちの方が多い。

ムラ医者として私は、日々消えゆく記憶を聞き取ることを続けている。

 

 

 

 

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