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            山下将軍の亡霊

 

               韓国人愛国者の複雑な胸中

 

初めてフィリピンに行ったのは一九八六年、マルコス政権が倒れた年だった。

 

マニラ郊外にあるフィリピン国立大学の留学生寮で、

各国の留学生としゃべって暮らした。

日本で暮らすより生活費がずっと安くて済んだ。

イラン、ネパール、ヨルダン、タイ、イラク、ベトナム、ガーナ、中国、韓国の

男女学生と一緒に飯を食い、プールへ行き、買い物に出かけたり、集会に参加したりし

た。

 

一番親しくなったのが、韓国出身の安(アン)だった。

控えめで小柄な苦学生の彼は、兵役ではレンジャー部隊員。

日本の登山家・加藤文太郎と登山家で冒険家の植村直己を尊敬していた。

冬の日本アルプスで、風雪の中を単身、主りょう線まで往復してくる技量を持ち、

すでにボルネオのコタキナバルに登ったという。

 

休暇に彼とルソン島中部へ、小旅行に出かけた。

政府軍と共産軍は二カ月間のクリスマス停戦中だった。

 

中部山岳地帯の最高峰プログ山(標高二、九二四メートル)へのアプローチは三日、

バスでバギオまで行き、ふもとの村まではシープニーで。

そこで民泊して、一気にピークへ向かう。

 

この山は、第二次世界大戦の激戦地、破壊された装甲車の残がいが残っている。

村の高校の先生が、親切にも自宅の二階を提供してくれた上、「一緒に登ろう」という。

曽祖父(そう・そ・ふ)は日本人だ、と彼は言った。

 

途中の高原都市バギオ周辺にも、日系人は多数住んでいる。

今世紀初頭、スペインからフィリピンを奪った米国はまず、高原に避暑地を建設した。

この時の中国は北清事変直後で、肉体労働者「苦力(クーリー)」の供給をやめており、

二千人の日本の若者が、移民労働者としてバギオまでの道路開削に従事、七百人が犠

牲となった。

 

工事が終了し、現地の女性と結婚して落ち着いたのもつかの間、

今次大戦の緒戦で日本軍がリンガエン湾に上陸。

現地徴用された日系二世は、通訳として使われた。

 

敗戦に際し、山下奉文将軍は、この山中で最後まで頑強に抵抗した。

四五年九月二日、キャンガンで彼が降伏して、フィリピン人にとって「悪夢」の戦争は

終結する。

しかし、日本兵は帰国できても、裏切り者とされた日系二世は全員処刑され、

日系人は、長く山中に隠れ住んでいた。

 

山では、仲間同士の信頼がすべてだ。

韓比日の三人で、風雨の中ピークを踏む寸前のこと、小休止の時だった。

 

安がコリアンと知らないフィリピン人の彼が言った。

 

「日本の占領下で、もっとも残虐だったのはコリアンだった。

赤ん坊を宙に投げて、銃剣で受けたのも彼らだった。

皆がそう信じている」

 

一気に遭難しそうになったパーティーを何とか支えつつ、

私は、霧の中に、山下将軍の亡霊を見たような心持ちだった。

 

その後も各地でこのたぐいの言説を聞く度に、

愛国者たる安の胸中が思われてならない。

 

 

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