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            道普請

                   今も生きる自治の伝統

 

 二十一世紀半ばには、この国の住民の三人に一人が六十五歳以上になるといわれる。

ところが、私の暮らす南相木村では、現在、すでにそのような年齢構成になっている。

ある意味で、「未来」を先取りしているのだ。

 

 今のところ、あまり老人介護の問題が顕在化することなく済んでいるのだが、

それは、むらのもつ「含み資産」としての「助けあい」の習慣や「お互いさま」の精神

が生きているからだろう。

 

 

 むらには、かつて「若衆寄合(わかしゅうよりあい)」という組(くみ)があった。

後に青年団や消防団に統合されていくのだが、結婚前の若い男衆(おとこしゅう)によ

って自律的に構成されていた組織だ。

 

 彼らの若い力に頼らざるを得ないような案件は、全てこの若衆寄合に付託され、決定

され、実行された。

現在、時代を先取りするほど高齢化したこの山のむらにも、

若い力がみちあふれ躍動していた時代が確かにあったのだ。

 

 たとえば、どこかの家で御不幸があった場合、

亡くなった方の墓穴を掘る作業は若衆寄合で取り仕切られる。

むらの自治を尊重しない者に対しては、寄合が作業を拒むこともあり得る。

それこそ火事になっても、消火作業にあたってもらえなくなる。

 

 いわゆる「村八分」とは、「いじめ」や「仲間外れ」と、

必ずしも同じ意味ではなかったのだ。

 

 

 こうした若衆寄合のような「自治」の組織が衰えていったのは、大正の末年ときく。

 

 第一次世界大戦後の戦後恐慌に際し、一九一八年(大正七年)に政府からの補助金が

はじめて直接ムラに届けられるようになった。

自前の組織と努力をもって、むらを治め、守り育てる必要性が次第に少なくなっていっ

た。

この傾向は昭和農村恐慌後も、戦後も一貫してつづき、現在に至る。

 

 ただ、むらにあっては、共同体の重要慣行として「自治」のとりくみは依然として生

きつづけた。

補助金がやって来る以前のむらのありようを知るお年寄りが御存命であり、

むらを治めることは彼らにとって、

自分たちで自前でとりくみ、自らの手を煩わせること以外にはなかったからである。

 

お年寄り方は誇りをもって、往時を追想する。

 

「むらの子どもたちの為に、自前で学校を建てた」

「金持ちは金を出し、そうでない者は、もっこをかついで整地作業にあたったもんだ」

 

 今もむらでは、「道普請(みちぶしん)!」と声がかかる。

 

 季節の変わり目には、集落総出で、むらの道々や川筋を手分けして廻り、

ごみをひろって、大自然に手を入れる。

 

 他人任せにしないで「公共」を担う自治のとりくみが、

数百年の歴史を経た今も、むらでは生きつづけている。

 

 

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