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         ムラの老人たち

 

大地に根を張る知恵と技

 

 

 山の村に家族五人で暮らしながら、村の医療にとりくんでいる。

 

 月に一度、往診で隣村の南牧(みなみまき)村を訪れる。

 

 野辺山高原の吹雪の冬――零下二五度の地吹雪を、幾度か体験した。

冬山の厳しさ、恐ろしさを知ると、なおさら春の芽吹きが懐かしくなる。

冬を知れば知るほど、新緑のカラマツ林、シラカバ林が風にゆれる高原の初夏が、

とても待ち遠しくなったものだ。

 

 標高一、三五〇メートルにひろがる野辺山高原を、

佐久甲州街道の分水界にあたる平沢峠から、眼前に一望する。

 

 すそ野が巨大にひろがる八ケ岳の峰々の上を、白い雲が流れていく。

白い雪を頂く八ケ岳の岩峰から甲州信州の県境、県界尾根をすべり落ちて、

雪解け水が足下の渓谷に流れ下っていった。

 

 

 この野辺山高原は、中国東北地方、旧満洲から追われて引き揚げた

日本全国の開拓民が、敗戦後再度の入植をしたところである。

 

 長く米のとれない無人の荒野だったところで、戦時中は、

「本土決戦」のため、海軍航空隊の基地が設営されていた。

松代大本営と同時期。

大量の朝鮮人労働者を動員しての造営だったときく。

 

 信州は「神州」とされ、今次大戦末期には信州各地に

日本軍の研究所や施設が、地下工場として疎開していた。

 

 戦後になって払い下げられた原野には、

二度目の入植で切り開らかれた高原野菜畑が一面に広がっている。

 

 

 毎日、ムラのご老人方の「ものがたり」をお聴きする。

開拓民だけでなく、南佐久の山中における民衆の生活の苦労話をお聴きする。

 

 あらゆることができないと食えなかった時代。

生き残るために、非常に多様な能力が必要であった時代。

ムラのご老人方は、まさに百姓たる、百の知恵と技をお持ちである。

 

 田をつくり、水を引き、炭を焼き、養蚕や、造林伐採などの山仕事から、

子どもをとりあげ、家具をつくり、自分の家ぐらい自分で建ててしまう。

秋にはマツタケ山へ行き、冬には猟をしていたから、

野や山の動植物に関してもほとんど知り尽くしている。

 

 都会からやって来た私たちと比べて、

実にアイデンティティーがしっかりしている。

つまり断固とした「根っこ」を持っておいでであることに気づかされるのである。

 

 

 美しいが標高が高く、大変自然条件の厳しいこの村に暮らして、

私は自分の無力さと根っこの浅さを思い知らされる。

お客さん、つまり患者さんであるムラのご老人方から、

世間の広さと世界の多様さを、日々学ばせていただいている。

苦労を苦労と(自分にも他人にも)感じさせず、必死に生き抜いて、

世紀末の現代日本を迎えるに至った人々・・・。

 

 首の後ろに、ザクリとえぐれた刀傷が残っていた女性がいた。

フィリピンのミンダナオからの引き揚げ体験を、

診察室で一言だけ語って頂いたことがある。

銃剣の傷というものを、初めて見た。

 

 詳細を問い直すことが、わたしにはどうしてもできなかった。

 

 

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