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            シンシアの診療所

 

                 「難民」たちのとの出会い、別れ

 

 友人のシンシアは、軍政下のビルマ(ミャンマー)から逃れた、すぐれた医師だ。

国境を越え、タイ領内に入ったすぐのところで診療所を開いている。

彼女は「無免許」で診療しているのだが、タイ政府は黙認している。

難民の共通語であるビルマ語で診療を受けることのできる、

数少ない医療機関である。

 

 一九九六年、その診療所に米国のスタンフォード大学から

男女の医学生たちが来ていた。

 蚊帳をつって合宿し、英語でシンシアと病棟実習をやっている。

私も講義を依頼された。

スタンフォードでは「実習」として単位認定されるのだという。

大学が指定する世界十カ所の辺境や国境の診療機関から、

「タイビルマ国境のシンシア・クリニック」を選んで参加した、

と医学生から聞いた。

 

 ビルマといえば、十五年前、京都で医学生だった頃(ころ)、

京大の東南アジア研究所に研究員として来ていた

アウンサン・スー・チーさんと立ち話をしたことがある。

 南方仏教の話をした。上品な女性だった。

その頃の彼女はもちろんまだ「政治家」ではなかった。

愛国者である彼女が、ビルマの軍事政権と

対峙(たいじ)する民主化運動のリーダーとして

登場したのは、その後八八年のことだった。

 

 政権の暴力により彼女は自宅に軟禁され、

彼女を支持する数万のビルマ人学生がタイ国境のジャングルに逃れた。

多数がマラリアに倒れた。

国内の少数民族を奴隷化して圧迫する軍事政権から逃れ、

国境の川を渡ってタイ領に逃れた少数民族の難民も十数万人に及んでいる。

さまざまなNGOは現在、タイ西部国境のキャンプで、カレン、

モン族からなる十一万五千人の難民に対する援助を行っている。

 

 少数民族の村を襲って焼き、女性を拉致するビルマ政府軍。

村の若者を脅して連行し、「ポーター」と称して荷物運びに使役する。

時には地雷原で先頭を歩かせて「人間地雷処理器」として使う。

(「麻薬と少数民族を牛耳ろうとするビルマ軍事政権」

 ル・モンド・ディプロマティーク九八年十一月号より)

 

 

 

 迫害や飢えを逃れ、いくつかの国境線を越えた難民たちが日本列島に至り、

「バブル景気」が例外的に続いていたここ信州で彼らに出会い、

そして別れることになった。

 

 あるビルマ人の青年は私の友人の日本人弁護士と一緒に外来を受診し、

日本への「亡命」希望を述べた。

 慢性の咳(せき)に悩んだ彼は、亡命申請にあたっての

健康相談に訪れたのだった。

 

一目で以下の診断となった。

喀痰(かくたん)からは結核菌が、血液からはウイルス抗体が検出された。

 HIV感染から肺結核を発症していた。

 

 彼は八八年当時大学生で、スー・チーさんの身辺警護にあたっていた。

米国や欧州の外交官らがスー・チーさん宅を訪れて向かいあって

座る記念写真のバックに、ボディーガードをつとめる彼の姿が写っていた。

彼はその後国境線に脱出して、シンシア・クリニックをしばらく支えた後、

バンコクを経て日本へやってきていた。

 

担当弁護士はこの写真を「証拠」として提出し、

日本政府は、彼の亡命申請を「例外的に」として、許可した。

 

 

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