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     「むら」のカルテ1

 

                          死に方の作法

 

 信州の山の村の診療所に家族五人で赴任して、そろそろ通算で四年が経った。

ここ南相木(みなみあいき)村は鉄道も国道もない群馬県境の村だ。

毎日のように村の診療所で患者さんを診たり、むらびとのお宅を訪ねて昔語りを伺っ

たりしている。

お客さんであるむらのお年寄りには元気な方が多い。たまに寝たきりに近い方もいるが

、六十代ではまだ若僧、七十代で一人前、八十代でも農業の現役、という「元気老人の

村」である。

 

 足半(あしなか)という、ワラで編まれた丈の短い草履を作っている中島至静(し

せい)さんは元気老人の代表格だ。八十一歳にして、今も多くの人々の要望に応えて、

売るためにではなく、足半を作り続けている。

 

 至静さんは、もともと馬の種付けを業としていた。軍馬を育てることが、このむ

らの主産業の時代があった。種馬の世話をすることで家畜の様子をみることに長(た)

けていき、村人の信頼を得て、ちょっとした獣医のような仕事にも取り組んでいたそう

だ。いや、仕事というのは正確ではないだろう。

たとえば、牛や馬といったどこの家にもいた家畜にデキモノが出来たりすると、

至静さんのところに連れていく。すると、さっと切ってくれる。

もちろん、お金で支払う必要などはない。

技をもつ者が、その技をむらや、むらびとのために活かす。それが当たり前の時代だっ

た。

 

 

 むらには、「死に方の作法」があるようだ。何人かのお年寄りの最期を看取るうちに

感じるようになったものだ。

 

 死に方の作法は、生き方の作法でもある。

不便な山の中で生き抜いていくための知恵や技と関係があるもので、

普段の立ち居振る舞いにも現れてくるものだ。

 

 この四年間で、十数人の死亡診断書を書かせていただくことになった。この中には

JR小海線の鉄道駅に併設された小海(こうみ)診療所に当直していた時のものもある

。だから村外の患者さんも含まれているので、むらびとで看取った方は十人ほどになろ

うか。

 

 私の村の診療所には入院設備がないため、入院が必要な病気やけがの際は、

佐久病院や小海診療所にお願いすることにしている。

熱が出て、食事がとれなくなったご老人を診療所の車でお連れして、入院していただ

くこともある。

 

 佐久病院までは車で四十分。

むらで暮らす、車を運転しないお年寄りからすれば、近いとはいえない距離である。

 

 すると、どうしても「病院で死にたくはない」と勝手に病院を抜け出してきて

しまう人が現れる。外泊許可をもらい、いったん自宅に戻ると、そのまま「退院」

にしてしまうのである。医師の立場としては文句を言わざるを得ないのだが、ご本人、

それに家族が「どうしても」と言う場合、「では、そうしましょうね」と、

私が主治医として付き、自宅で療養をしてもらうことになる。

 

 ただ、この場合、家族に介護疲れが見られるようだと、すぐに病院に戻すように

している。とくに老夫婦二人だけで暮らしている家では、疲労のため揃って倒れてし

まうこともあり、夫婦を隣同士に入院させたこともあった。

 

 いつもその方の最期の時がいつになるかは判っているわけではない。

癌などがあって、あと数ヶ月と予想のつく患者さんもいれば、何ヶ月先か、何年先か、

見当のつかない方もいる。

 

 むらのお年寄りが抱く「できるなら、自分の家で死ぬまで暮らしたい」という思い

は何なのだろうかと、ずっと考えてきた。

 

 子どもや孫が都会で生活し成功していて、むらでは老夫婦二人だけで暮らしている

ような人も、やはり都会へ行こうとはせず、退院後はむらに戻ってくる。

 

 いろいろと話をしているうちに判ってきたことがある。

彼らをひきつけ、むらに留まらせるものは、むらの風景や想い出なのかもしれない、と

 むらびとと話していると、一つ一つの風景に想い出がまとわりついていることが

分かる。何らかの「いわれ」があるのだ。

 

 今から八十年も前、自分がまだ幼かった頃のこと。「ご先祖様」が見守ってくれてい

る高台の石仏のわきにある一本の木。今は亡き父が苦労して奥山から移して植えた桜の

木だ。

今大木に育ったこのミヤマベニザクラはすばらしい花を咲かせてくれる。

 

 「長生きしすぎた」と私に語ったおばあさんは、今はなき幼馴染の誰それと川遊びを

した

淵や瀬について語る。

 

 何代か前の誰それが直して広げた「つくり道」、米のとれなかった村でいついつ水を

ひいて開かれた田んぼ。一本の木、ちょとした小道、用水路に至るまで、何らかの想い

出をもって語られる風景なのである。

 

 京都や奈良の町並みにまつわる歴史的景観のもつ「大きないわれ」とは異なり、

小さなものだが、しかし、住む人にとってはとても深く、重い「ものがたり」がそこか

しこに伝わっている。

 

 だからなのだろうか。このむらには、戦前、満州開拓に赴いたり、戦後シベリアに

抑留されたりして苦労したお年寄りがたくさんいる。そしてみんな一様に「早く帰りた

い」

と願っていたという。それは「日本に」というより、「このふるさとに」帰りたいとの

思い

だったと聞いた。

 

 一つ一つの木にも草にも、ものがたりのまとわりついた風景は、むらびとのつくりあ

げた

共同作業の所産でもあった。

 

 むらのお年寄りに話を聞く。苦労話となると、みな口を開いてくれる。

ただ、彼らの多くは苦労を苦労とも思っていないところがある。

 

 そして「苦労」した主人公が彼本人なのか、あるいはむらびと全体なのかが判然と

しない時さえある。「俺」という一人称を使いながら、実は「俺たち」を指しているこ

とが

ままあるのだ。

これが世代を下ると、個人の想い出は確実に、話し手本人だけを指すようになる。

 

 これは、むらというものが、人と人との濃密な関係性と共同性によって成り立ってい

たことを物語っているのだろう。

 

 家の前に、私たち家族が借りている畑がある。遠目にも一目瞭然である。

なぜなら、私たちの畑だけが申し訳ないことに雑草だらけで緑色になっているからだ。

むらのお年寄りたちは、いつも自分の畑に眼を光らせている。

 

 そうしなければ雑草が茂り、やがては種が宙を飛んで、

あちこちの畑にばら蒔かれてしまう。

むらの中では、自分、自分と言いたてる個人主義は通用しない。

 

 こうした共同体で生まれ育つことで、人々は生き方の作法を、そして死に方の作法

を身につけることになった。

 

 かつてむらびとは、隣人の誕生から死までを、自分たちの手でとり仕切ってきた。

 

 赤ん坊が生まれるときは、むらの産婆さんが駆けつける。

赤ん坊がきれいな姿で生まれてくるなど、作られた幻想である。

赤ん坊は血みどろになって生まれてくる。

そして、生まれた後、誰かが臍(へそ)の緒を二ヶ所でくくり、あいだを切ってやる

必要がある。

さらに、後産(あとざん)、つまり胎盤を子宮から掻き出してやらねばならない。

 

 人が年老いて亡くなるときも同様である。

御遺体を洗い清めて、鼻や口やお尻に綿を入れる。そして、墓穴を掘る。

そこまでの作業が、人を看取るということだったのである。

 

 今では、そうした誕生や死にまつわる儀式は医師や助産婦、看護婦等の「専門家」

がつかさどることになり、家族の目からも地域からも隔てられ隠されるように

なってしまった。

 

 死に方の作法とは、自らの終末と死を共同体の手に委ねることであった。

 

「自分の家で死にたい」と願うむらのお年寄りは、ひとは死ぬものだということ

を知っている。死を受け入れることのできる、確固とした心の基盤をお持ちである。

 

 医師としてそうしたお年寄りたちと触れ合い、彼らの作法に学ばせていただいた時、

私は日本が日本であった時代の立ち居振舞いを再発見することになった。

 

 

 

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