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   第25回地域と教育の会全国研究集会  

       2000年8月26日(土) 兵庫県但馬

 

      記念講演 「風の人・土の人」  

       色平(いろひら)哲郎氏(医師)

 

 

               

国道も鉄道も無い村

 

私の村は、国道も鉄道も無い村で信州の山の中にあります。

昔は、飢え死する人が出たことがありました。

江戸時代の天保7年には村全体で126人もの人が餓死しています。

お金を持っていても、そのお金で買う食べ物が無かった、と伝わっています。

今から100年ほど前の明治30年の7月には飲み水が原因で赤痢がはやりました。

お医者さんのいない村ですから、お寺に二百数十人が収容されて、

そのうち40人以上が亡くなられた、という記録が残っています。 

この日本においても、ひもじさや感染症の記憶が受け継がれていました。

私達、都会に住む人間に伝わらなくなってしまっているだけなのでしょう。

 

 

風の人と土の人

 

そういう意味で私ども都会育ちの人間は「風の人」であり、

また、新人類でもあるのでしょう。

田舎にお住まいの年輩のかたがたは、根っこを張った「土の人」であり、

その根っこを引きぬかれてしまうと、自分のアイデンティティーをしっかり持った方で

すので、

転居して都会などに移り住むと自分が自分でなくなってしまうのです。

 

 

先住民族としての「土の人」

 

みなさんの研究集会の資料を入れる封筒の表に書いてありますが、

セイフフード、セイフウォーター、、、安全な食べ物、安全な水、とありますね。

健康な私達の生活を作り出す上で、安全な食べ物と水は絶対に欠かせないものです。

 

村には餓死の記憶があり、食べ物が十分に無かった時代がありました。

どうすれば水道を自分たちの手で引くことができるだろうか、と考えていた村人の記憶

は今の80代、90代のおじいさん、おばあさんたちに伝わっているのです。

 

彼らこそは、日本の「先住民」であるかもしれませんね。

先住民の生き方というものには、あこがれる気持ちと、

とても自分にはついていけないであろうと考える部分とがあります。

たとえば、共同体のルールを守らない人やお金を借りて返さない人達について、

今の日本で常識となっているような制裁、罰の与え方とは、

ずいぶん違ったやり方で対応したものであった、と伺っています。

 

 

「壁」にぶつかる事

 

私は長野県版の朝日新聞に、「風の人、土の人」という題のコラムを毎週書いています。

そこにこんなことを書いてみました。

私の村に毎年、医学生200人ほどがやってきます。

都会でなにかしらの壁にぶつかって、悩んでおいでになる。

私も若い頃深く悩んで大学を中退したりして、親不孝をした人間ですので、

悩む事や自分で自分の道を見つけるために壁にぶつかる事は、むしろ大切な体験なのだ

と思っています。

しかし、それにしても、どうしてこんなに多くの若い方々が村においでになるのか?

もしかしたら、それは、医療についても看護についても、「原点」がよく見えるからなの

ではないか、

と考えています。

 

 

お年寄りの生き方

 

長野県のテレビ局が、「診療所の風景」を撮りたいといっておいでになったときのこと

。私を「だし」にして、村のお年寄りの生き方や立ち居振る舞いについて、

映像にして若い方々、都会に住む方々にお伝え下さい、と申し上げました。

それが、これからお見せするビデオです。

日本の若い人達は、村のおじいさん、おばあさん方から学んで帰るのです。

では、ビデオをお願いします。(ビデオ、始まる)

 

 

村で老いていく事を決めた人々

 

村で老いていく事を決めた人々がいます。

栗生(くりゅう)地区は、役場から5キロほど離れた山間にあって、およそ70人が暮

らしています。

一人暮しのひささんは、今年、家の前の畑にトウモロコシの種を2袋まきました。

ひささんは、1943年役場近くの生家から嫁いで来ました。

病気がちだったひささんは、何度も入院を繰り返しました。

今も、心臓に持病があり、診療所に通っています。

ゲートボールは、始めてから14年になります。

栗生のゲートボール仲間は10年で半分以下の4人にまで減りました。

最近は、一人で練習する事も少なくありません。

かつて分校だった場所がゲートボール場。

この地区に今、小中学生はいません。

南相木村は南佐久の東南の端、人口1300人余りの村です。

村人の3人に1人が高齢者です。

主な産業は農業で、白菜が生産の中心です。

山間の南相木では、大規模経営の農業は難しく、担い手の高齢化が進んでいます。

 

 

無医村にやってきた色平(いろひら)医師と家族

 

村で唯一の医療機関、南相木村診療所。

無医村となったこの村に色平哲郎さんが家族と共にやってきたのは、2年前。

村に暮らし、村人の一人として診療にあたっています。

山か島で医者になりたいと思っていた色平さんは、

旅先のフィリピンで農村の地域医療に取り組む佐久総合病院の名前を知り、

大学卒業と共に信州で医師の道を歩み始めます。

南相木村に常駐の医者がきたのは、20数年ぶりの事です。

 

 

患者さんの希望

 

村で暮らしつづけたいと望む人をどう支えるか、

佐久総合病院を退院してきた菊池さんは、脳梗塞の後遺症で右手に麻痺が残りました。

村で直したいというのが菊池さんの希望でした。

痛みもあってリハビリは思うように進みません。

菊池さんは、雑貨店を営んでいます。

菊池さんは、去年まで南相木ただ一人の生果商として、毎朝佐久の市場まで仕入れに行

っていました。

しかし、病気で生果店を閉め、車の運転もあきらめました。

もう少し右手が回復すれば、村で何とか暮らしていく事ができます。

菊池さんの希望は、現在月2回の訪問リハビリを毎週にする事ができないかということ

でした。

村で暮らしたいという思いは、医療の側面からだけでは、支えきれません。

村の保健福祉の専門家から成るケア会議で、菊池さんの現状と病状が伝えられます。

会議には村の役場職員、介護保険のケアマネージャー、看護婦などが出席します。

それぞれの立場からサポートし、村で暮らしたいという希望をかなえるための支える仕

組みが動き出しています。

菊池さんの所へは、希望どおり毎週訪問看護婦などが立ち寄り、リハビリを支援するこ

とになりました。

 

 

世間話から見えてくる村の姿

 

5月に入り、南相木にも、本格的な春がやってきました。

ひささんの古くからの友人、菊原いちこさん、一緒に年令を重ねてきました。

ひささんといちこさん、お互いがお互いの支えとなって、ここでの生活があります。

この日ひささんは診療所へ、いちこさんはデイサービスセンターへ向かいます。

診療所には2週間に1度通っています。

現在は症状が落ち着いているので血圧や心音などをチェックしてもらった後は、

色平先生に話を聞いてもらいます。

毎日の生活や村でのできごと、時にはなくなった両親の思い出話にまでおよぶことがあ

ります。

栗生へむかう村営バスは1日8本。

帰りの時間が合わず、診療所の車で家まで送る事はしばしばです。

車の中では医師と患者の関係を離れた気さくな話が続きます。

そうした世間話から見えてくる村の姿もあります。

色平さんは、村人の生活やその人のたどってきた人生を知る事によって、

より良い治療ができると考えています。

ひささんが一人暮しに入ったのは、おととしの事です。

 

夫の澄夫(すみお)さんは、98年から臼田町の老人福祉施設に入所しています。

バス、電車、バスと乗り継いで行きます。

佐久市に住む長男の宣次(せんじ)さん。

今年の冬は宣次さんの所で3ヶ月を過ごしました。

ひささんは、不便でも一人でも、栗生で暮らす事が楽しいのです。

友達や宣次さんに食べてもらうトウモロコシの芽が出るのを心待ちにしています。

 

猿谷喜秋(よしあき)さんは、先月まで歩いて診療所に通っていました。

食欲が無いため色平さんが往診して点滴を続けています。

どんなに時間に追われるときでも、家族の心遣いは受けとめようと思っています。

往診は、毎日3人から4人、多いときには7,8人を回ることがあります。

 

倉根七郎さんは、病気の経過を見るため1ヶ月に1度血液の検査を受けています。

村では往診が無くてはならない医療です。

往診を通じて村人との信頼関係が深まっていきます。

血液検査は村の診療所ではできません。

車で20分ほど離れた佐久総合病院の小海(こうみ)診療所へ持ち込みます。

ここでは検査の依頼だけでなく、検査結果について他の医師の意見も聞く事ができます

。小海診療所の存在が色平さんの医療を支えています。

 

 

集団健康診断

 

農村部の畑に人影が少なくなりました。

村と佐久総合病院健康管理センターの集団健康診断。

「ヘルス」の日です。

これは佐久総合病院若月俊一(としかず)元院長の、「予防は治療に勝る」という思想を

現在まで引き継いでいるものです。

村人は村から遠く離れた小海や臼田まで検査に行かなくても、近くの公民館で毎年受診

できます。

1969年、南相木村に近い南佐久郡八千穂村の全村健康管理の様子です。

佐久総合病院が佐久地域の中核病院として半世紀近く積み重ねてきた活動は、確実に地

域に根付いています。

高見沢ひささんも検診にやってきました。

一人暮しのひささんは、自分の健康は自分で守ることが大切だ、と思っています。

(ビデオ、終了)

 

 

昭和農村恐慌と戦争の世紀

 

おひささんは、自分がこんなに長生きできるとは思っておいででなかったようです。

当時は、お産で若い女性がずいぶん亡くなっています。

バブさんが12歳で出会ったのと同じ悲しい光景が、この日本にもあったのです。

1年間に3人の産婦さんが亡くなった年があった、と今に伝わっています。

昭和3年のことでした。

「昭和農村恐慌」という激動の時代でした。

繭の値段が6分の1に下がって、大変な年だった、と今に伝わっています。

それで村人は分村して、満州に出稼ぎに行ったものだ、と聞いています。

 

20世紀は「戦争の世紀」であった、と言われています。

石油を巡って争ったものだ、といわれています。

21世紀の戦争はどのような形のものになるのでしょう?

すでに、いくつかの推論がなされています。

 

 

お水の重要性

 

水を巡っての紛争が世界中で多発することになることは、ほぼ確実です。

世界には200からの国際河川(複数の国を流れる川)があって、

上流と下流の「水争い」が必至です。

 

日本は1年間に二千八百万トンの穀物を輸入しています。

穀物を1トンつくるには、水が1000トン必要です。

ですから日本は、間接的には、水の大量輸入国です。

そしてもちろん、この水とは真水の事です。

地球上にある水の99.5パーセントは、海水や極地の氷になっており、

真水として使うことができるのは全体の0.5パーセントだけです。

雨水としては1年間に120兆トンの降水があり、蒸発分を除くと、45兆トンが利用

可能な総水量です。

これは、直径42kmの巨大な水球に相当する量になります。

丁度、フルマラソンの走行距離に相当する直径をもつ巨大な水の玉をご想像ください。

この水をいったん汚してしまうと大変な事態になります。

地球上の陸上のすべての生物は死に絶えるでしょう。

 

 

悪い医者

 

私は病院で、悪い医者であると言われています。

日本に来ている外国人労働者や女性で、保険証を持っていない人々の世話をしていると

き、責められました。

なぜ、お金を持ち出す人ばかり世話しているのか、と。

ちゃんと保険証を持っている日本人の診察だけをしていれば、病院にとっては収入にも

なって、よい事なのです。

どうして、そんな趣味的な事をやっているのか、と。

バブさんも、下痢の子どもたちのためにきれいな水を確保するための井戸を掘る、とい

う取り組みをして

責められた事がありました。

バングラデシュの医師会は、「下痢の患者が減って、私達のお客が減るじゃないか!」

というふうに責めたのです。

佐久病院の地域での50数年の取り組みがフィリピンに伝わって、

そのフィリピンで私はバブさんと出会いましたので、ご縁がつながったように感じてい

ます。

 

バブさんの卒業した医学校を設立したドクター・フラビエルは、フィリピンの厚生大臣

を数年前に務めました。

彼は若い頃、晏陽初先生の「人々の中に」(GO TO THE PEOPLE)との教えを学んで、フィ

リピンの山の村へ入った医学者です。

 

 

人間として人間の世話をすること

 

私もまた医学生時代にレイテ島で晏陽初先生の詩にめぐりあい、

そしてバブさんからも2つの事を教わったのです。

第1は「人間として人間の世話をする」ということです。

それは診療所や病院だからできる、ということではない。

また、お医者さんだからできる、ということでもない。

地域の中で保健婦さんやいろいろな人々と一緒に取り組んでいく事が大事である、とい

うことです。

第2は、佐久病院についてです。

日本に戻ってどんな医者を目指したらいいのだろうか、と尋ねたところ、

佐久病院という存在がある、とバブさんに教わったのです。

 

日本の佐久病院の地域に根ざした取り組みが、フィリピンに伝わり、

中国の人々に向けた晏陽初の教育手法がフィリピンに伝わって、

その伝わった先を私は旅行して訪れたものですから、

日本に帰ってきてからは、地域医療の道を進むことになりました。

 

 

お金が無いから貧乏だなんて誰が決めたのか

 

 「お金がないから貧乏だなんて、いったい誰が決めたのか?」という知恵のある言葉を

おっしゃるご老人方が地域にはおいでになります。

おひささんがまいた2袋の種から大きく実ったトウモロコシを、先日いただきました。

土地の実りというものを感謝をもっていただきますと、

安全な食料と、それを担う安全な水が重要なのだ、と深く理解できます。

それが、この封筒の表に書いてある「まともな人生」、セインライフであるのでしょう

。まともな人生を歩むために、どのような生き方を選びとるべきか。

我々若い人間は、本当は、自分のおじいさん、おばあさん方からこそ聞き取るべきでし

ょう。

気恥ずかしくて自分の祖父母には聞きにくいような事についても、

地域に出て、人々からお聞きして学んでおくべきです。

村を訪れる学生さん方には、そのようにお話しています。

 

 

「みんなのもの」で商売をするな

 

ガンジス川のインドとバングラデシュの間には、ファラッカ堰という大きなダムがあり

ます。

川の水が多すぎるときには、インド側はダムを開き、バングラデシュが洪水になる。

水が足りなくなれば、ダムで水を止めてインド側に用水を引くので下流には水が来ない

。こうなると、悲劇的なのは、下流に位置する国々です。

バングラデシュという国は、たくさんの川の河口となっていて、「川のふるさと」と呼ば

れています。

別の意味では、我が信州長野県も「川のふるさと」と呼べるでしょう。

水源をたくさん有して、天竜川、木曽川、姫川、そして、もちろん信濃川の上流にあた

り、

きれいな水資源をたくさん持っています。

 

「水商売」と言う言葉がありますね。

普通言う意味の「水商売」ではない「水商売」が、世界中に広がっています。

先住民、例えばアイヌ民族の人々が大事にしてきた、みんなの持ち物である

水や空気、大地等を商売のねたにしていくような現在の世界の行き方に対して、

異和感を持ちつづけるべきであると考えています。

私達若い世代は、貿易したり、お金に替えたり、売り買いしたり、

商品化したりしてはいけないものが存在する、ことに改めて気づくべきでしょう。

人間のからだや臓器、遺伝子DNAも含めて、大切なものとして存在してきたのだ、

ということを先住民の知恵から学びとるべきであると思います。

 

 

コモンズ

 

 「公共」という言葉があります。

実は「公」と「共」は、別の言葉です。

公明党の意味でない「公」とは、パブリック。

共産党の意味でない「共」とは、コモンズということでしょう。

明治にいたるまでは、「公」というものは(江戸幕府こそ、公儀と名乗ってはいましたが

)、

ほとんど村には直接届いていなかったのです。

江戸時代、地域においては、ほとんどのものがコモンズ、つまりみんなの「共有物」「共

用物」でした。

誰のものかが定まっていない、みんなの土地や水が「共」の基本要素であったわけでし

ょう。

 

明治になってそれを「公」のものであるとして、国有地として取り上げる動きが一方にあ

りました。

同時に明治5年から6年にかけて「地租改正」がなされ、地券を発行して「私」有物にし

ていく動きもありました。

これら一連の出来事が日本における「近代」の始まりでした。

現在のアジアやアフリカの状況と接して考えてみますと、

「近代化」というものが、何を壊しながら進んでいくのかが見えてきます。

「共」有物を、誰かのものや国のものにして簒奪(さんだつ)する形で、近代化が進行し

ていくようです。

 

 

モンゴルの大草原は誰のもの?

 

モンゴルの大草原のことを話して、終わりにします。

モンゴル民族は、13世紀に世界帝国を築いた遊牧の民で、広大な牧草地である大平原

に家畜と共に暮らしています。

去年1999年までは、草原は誰のものでもなかったのです。

しかし、去年、土地登記がなされるようになりました。

明治5年から6年にかけて、地券が発行されて土地登記が行われた日本と同じことが、

今起こっています。

つまり、有史以来のコモンズであった遊牧地が私有地化されはじめたということです。

 

「モンゴル人は豚が嫌いです。」と言うことわざは有名なもので、

モンゴル語の学習の初歩で必ず習うものです。

けれども、なぜ豚が嫌われるのでしょうか?

豚は土地をほじくります。

農耕地とちがって牧草地は表土が非常に薄いので、豚がほじくった土地は草が生なくな

り、

遊牧地として使えなくなってしまいます。

このような民衆の知恵が長く伝わって、

コモンズとしての草原は私有化されずに来たのだと思います。

 

「土の人々」が長く受け継いできた、「みんなのもの」であるという感覚こそ、今やとて

も重要です。

入会(いりあい)権や漁業権、水利権といった比較的古い、古来の権利こそが、

現代、日本中で進行中の環境破壊への歯止めとして機能してくれているように感じられ

ます。

先住民や牧畜民の知恵であった「みんなのものとしてとっておいておくこと」の知恵が、

今日の日本でこそ改めて再認識されるべきである、と考えております。

 

 

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