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生きる「歴史書」

(月刊MOKU2000年5月)

 

 村の診療所には、ポツンポツンと患者さんがおいでになる。多くは高齢の方だ。聴打

診すると、百姓として生きてきた年月が、皮膚の底から語りかけてくる。寡黙なおじい

さんおばあさんに代わって、変形した膝の骨やつぶれた背骨が証言する。機械に頼るこ

とのできなかった時代、牛馬と共にあった暮らしぶり、隣近所で助け合うほかなかった

農作業のありようを。「沈黙の証言」の瞬間だ。

 

 都会では十の痛みを百とおりの言葉で表現する人たちがいる。しかし、私の村の患者

さんたちからは十の痛みも一くらいにしか伝えていただけない。重大な病気を見落とさ

ないように、ちょっとしたしぐさや訴えから、言葉になる以前の言葉を読みとろうと努

力することになった。そうしながら、僕は、簡単には弱音を吐かない「野性」のご老人

方の「ものがたり」に耳を傾ける。それは百の言葉以上に豊かで、そして、ときに哀し

い。

 

 

 

 戦争へ行って,生きて帰った男衆が言う。「五族共和」「王道楽土」という御旗のも

とで自分たちのやったことは、気がつけば「宣撫」活動だったと。

 

 百三歳の難聴のおばあさん。介護にあたる孫娘さんが言う。十一人きょうだいの一番

上の姉さんだった。子守をしながら通った小学校だったが、背中の赤ちゃんが授業中に

泣くので「廊下へ出ておれ」と言われて三日でやめたと。

 

 父親から聞いた話を語る人がいる。大正の末年、父は村から出征した.「シベリア出

兵」からしばらくぶりに帰国して驚いた。母が入れ替わっていた。実母はインフルエン

ザ大流行で死亡し、後添いさんが家に入っていたと。

 

 幼くして女工となった女衆が言う。親元から引き離され集団で暮らした寄宿舎の「籠

の鳥」の生活.結核を患って「帰郷」する友人を見送ったのが自分の青春時代だったと

 

 戦友の想い出を語る男衆がいる。前線の二百人の部隊で死者六十数人。本当の戦闘中

の死者は二人で、あとは栄養不良で死んだのだった。

 

 関東大震災の際の村の消防団の対応を語る人がいた。県境の峠を越えて東京から歩い

て逃れてきた被災者の一団をさえぎり,竹槍を突き付けて「十五円、五十五銭」と発音

を強いる。濁音を発音できない者は「井戸に毒を入れる朝鮮人」として侵入を阻止した

 

 南方フィリピンへ出征して帰ってこなかったひとり息子を待ち続ける母親が語る。レ

イテ島から届いた骨の代わりの小石の入った骨壺を前に、惚けてはいるがきっぱりと、

「死んではいない」。

 

 首の後ろに「ザクリ」とえぐれた刀傷が残る女性は、フィリピン・ミンダナオ島から

の引き揚げ体験を、ひと言だけ語ってくれた。初めて見る銃剣の傷を前に、僕はそれ以

上問い直すことができなかった。侵略側の一民衆として彼女が受けたこの傷は、現地住

民の人々の受けた、これに数十倍する苦難を彷彿とさせる。

 

 

 

 山奥に住む八十四歳のおじいさんは目が見えない。昭和四十年(一九六五)に失明し

て、以来三十五年間、一級身障者手帳と共に暮らしてきた。おじいさんの脳裏には、記

憶の中の村がある。

 

 彼は、家から一歩も外へ出ないのに、世の中のさまざまな動きを知っている。毎日,

NHKのラジオを聞いているのだ。三十五年以前の村の様子も、なにからなにまで語る

ことができる。彼の話を聞くことで、僕たちも当時の村の生活ぶりを映像のように観る

ことができる。

 

 ある日、胃カメラの検査を受けてもらうために、そのおじいさんを自宅まで迎えにい

って、村の診療所まで車で連れてきた。その帰り道、彼はポツリポツリ語りはじめた。

 

 戦後、シベリア抑留から帰ってきたあと、馬を使って荷物を運ぶ運送という仕事をし

ばらくやっていた。彼の住む山奥の集落から、診療所のある集落まで優に一里ある。そ

の間を、馬を引いて毎日往復していた。だから、自分の歩いた道をよく覚えている。道

の上り下りや細かいカーブの具合を体で覚えている。見えなくなってはいても、彼の頭

には、未舗装だったころの曲がりくねった細い道が浮かんでいたのだ。だけど、きょう

は違った。「ずいぶん道がよくなって、わからなくなったなあ」。目の見えたときの道

の感覚を追体験できなくなったという。

 

 県道わきに、道祖神様と並んで「馬頭観世音菩薩」と刻んだ石仏が見える。石碑は、

一昔前の運送の馬が谷に落ちたり、急坂に斃れた場所を記憶している。

 

 彼が、診療所の看護婦さんに、「あんたは、誰だい?」と尋ねた。「ああ、あんたの

姉さんが小さいころ,庭で遊んでいたのをよく覚えてるよ」。僕が「いま、この辺はカ

ラマツの植林だけど、昔はどうだった?」と聞くと、「コナラだったね。それで、しい

たけをつくった。いいのができたよ。そう、コナラは、いい炭になったな」。「ほかに

は、なにをやったの?」。「ヤギを飼った。みつばちも飼った。魚も毎日のように捕っ

たり釣ったり……。釣りだけはおやじにも勝ったな。おやじについて、奥山のいろんな

ところへ行った。山ではおやじが師匠だったけど、釣りはおれのほうが師匠だった」。

 

 彼の脳裏に焼き付いている三十五年以前の村は、まだ村が村として生きていた時代の

姿で、僕たちはそれを直接見ることができない。彼だけが鮮明に見ることのできる、か

けがえのない風景。だから、僕は彼の「ものがたり」を聞きとる。

 

 現存する日本最古の歴史書『古事記』は、盲目の稗田阿礼が誦習した帝紀・旧辞をま

とめたものといわれている。目の見えないおじいさんの「ものがたり」もまた村の歴史

書となろう。

 

 

 

 「いやあ、先生にはわからんだろうけれどね……」

 

 診療所で、あるご老人はこう言った。ところが、彼を自宅に訪ねた際には、微妙にご

老人の意識が変わっていた。彼は、初めて自分の苦労話、つまり「ものがたり」を語り

はじめた。白衣を脱いだ僕に対して。

 

 可能なら、医師はすべての患者さんの家を訪ねておくことが望ましいのではないか.

白衣を着た権威ある医師としてではなく、となり人として。人生の先輩であるその人の

、背景を含む生活全体を見届ける目をやしなうために。

 

 歴史の「生き証人」としての人々の記憶を抹消しようとする営みには反論したい.

 

 ご老人方の「歴史」を聞き届けることは、その人の「いのち」のためだけではない。

歴史が単に「過去」ではなく,現在を指し示す営みであることを思えば、ご老人方の語

る「歴史」を学ぶことは現代社会の「いのち」のためでもある。

 

 もしも歴史が単なる「過去」の集積であるだけなら、歴史は年号の数字の羅列となり

、人生は単なる「過去の羅列」にすぎなくなる。人の「いのち」は、決してそんなもの

ではないだろう。

 

 なにかしらの病気やけがをきっかけにして医者である僕と出会い、「心のカルテ」に

強烈な心象を残して、お年寄りたちは去っていってしまう。そうした人たちすべてに「

歴史」があった。見送ることで、小さな村はまた一冊、歴史の本を失っていく。大きな

図書館と違って、小さな図書室では一冊一冊の本の存在感は大きい。百姓の「百の能力

」が伝わりきれずに消えてしまう。「もっと聞きとっておけばよかった」「あの人なら

こんなとき、どう対処し、どう助言してくれるだろうか」。そんな思いに駆られる。

 

 

 

 うまくはないポツポツと紡がれる語り、言葉にならない言葉、その向こうに、教科書

に載っていない確かな歴史を見る。瞬間瞬間にこぼれ落ちる「ものがたり」を僕は拾い

集める。

 

 

 

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