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溶けゆく関係性の中で…

(月刊MOKU2000年4月)

 

 山奥で独り暮らしを続けていたIさんだったが、体がいうことを聞かなくなって、い

やいや都会の息子のマンションにひきとられていった。

 

 だが、しばらくすると、ほとんど自力では歩けないはずの彼が“脱走”して村へ帰っ

てきていた。(きのこ採りにいく)山がない、(さかなを捕る)川がない、(たき火を

する)原っぱもない。団地の公園でたき火をしたら、だれかが通報したのか、警官がや

ってきてひどく叱られたという。

 

 「このままではボケてしまうと思って逃げてきた」

両膝の痛みを止める処置をしたあと、僕は尋ねた。

 

 「買い物なんか困るだろう。息子さんのところへは戻らないのかい?」

 「おれは、ここで死んで本望だ」

 

 都会人が気づきにくい“管理の網の目”を感じたIさんは、「自分が自分でいる」た

めに都会を抜け出した。「互いの“関係性”の中で老いて死ぬこと」が「当たり前であ

り至福である」と考える村人は、都市の“匿名性”の人間関係の中で老いていくことに

違和感を覚えるのだろうか。都会人と村人とでは老い方、そして“死に方の作法”に違

いがある。

 

 

 

 Iさんのように独り暮らしの家、あるいは老夫婦二人だけで暮らす家が、僕の村には

少なくない。先日も、そんな独り暮らしのKさんを看取った。八十三歳だった。

 

 倒れているKさんを最初に発見したのは、お年寄りの家を訪問しているデイ・サービ

ス・センターのホームヘルパーさんだった。いつも開いている玄関が閉じられているの

で不審に思い、呼んでみたが返事がない。家の周りを回ってみるとトイレの窓が少し開

いていた。覗くと、そこにKさんが倒れていた。ヘルパーさんは彼女のご主人に電話し

た。彼は村の消防団の分団長で、男気のある人。駆け付けるとトイレの窓をこじあけて

中に入り、人工呼吸を始めた。

 

 連絡をもらった僕も加わっていろいろと手を尽くしてみたけれど、手遅れだった。胸

の辺りがまだ温かかったから、おそらく倒れてから発見されるまで三十分くらいしかた

っていなかっただろう。高原の冬の朝は零下十数度に冷え込んでいた。

 

 「残念だけど……」。そう言いながら、僕はKさんが生前語ってくれた彼の人生を想

い起こした。

 

 彼は、一旗揚げるために、若くして満州へ渡った。ところが現地で召集されてシベリ

アに送られ、二年半シベリアで抑留された。日本へ引き揚げてきたのは二十九歳のとき

。「二十代の十年間を棒に振った」と彼は語った。

 

 戻ってはきたが、Kさんに帰る家はなかった。そこで水の便の悪い高台のほうに自分

で家を建てて住みついて、自力でその土地を四、五年かけて開墾した。機械力のなかっ

たころだ。すべて手作業だったという。貧しい生活が続いた。

 

 なんとか食えるようになったとき、子どもたちは独立して街へ下りていった。そのう

ち奥さんが亡くなった。それから今日まで、独り暮らしが続いた……。

 

 IさんやKさんだけではない。教育熱心な家庭ほど寂しい老後を迎えることになる、

という村の現実。自慢の息子たちは都会で大学を卒業し、社会で活躍している。孫に会

えるのも盆暮れだけ。が、自分は決して都会では暮らせない。暮らしたいとも思わない

。思い定めた村人から見る「大東京」は切なく悲しい。時には「手遅れ」状況も発生す

る。ついにだれもいなくなり、神社の鳥居と屋根の落ちた家々ばかりが残る。村には、

そんな空き家もポツポツと出てきた。

 

 

 

 村には「モンダ主義」が通用している。嫁は……するモンダ、若い者はこうするモン

ダ、長老はこう振る舞うモンダ、といった意識上の縛りである。

 

 このような行動や意識の縛りは時として、お嫁さんの取り組む老人介護風景すら写真

写りのよいものにしてしまう。

 

 近年、「介護の社会化」という美しい言葉が村に届いた。介護の負担を転嫁されなが

らもなんとか乗り切ってきていた村の女衆の期待は極大化した。都会的な“匿名性”の

介護が、彼女たちの前にヒーローとして登場したのだ。

 

 −−現在の日本で「介護の社会化」として呼び習わされる社会制度、そしてその寛容

な制度を支える理念に、二十年ほど前、僕はヨーロッパで出合った。いくつかの国々を

訪ね、街角で見て、人々に尋ねてまわった。市民一人ひとりが「介護」や「福祉」を自

分の問題、「自治」の課題としてとらえ、他人任せにしないで自前で取り組むことを誇

りとしていることを、このとき学んだ。その後、アジア諸国の農山村を訪れるようにな

った。そして自治都市の伝統を受け継ぐヨーロッパの「市民の社会」とアジアの村々に

共通する「ムラの自治」とが、重なりあって映るようになった。むしろ対極にあるもの

とされてきた市民革命後の近代社会と封建制度下の農村共同体。この二つに共通する“

何か”を発見しえたとき、僕はとてもうれしかった−−。

 

 メディアが村に伝えた、女衆の前ではキラキラと輝いて見えた「介護の社会化」も、

現実にはヒーローでも魔法でもなく、お金を介しての契約関係であることが次第にわか

ってきた。介護が商品化されうるものだ、との前提に立つ制度だった。そして、障害者

を含むすべての村人に村内でのなんらかの役割が担わされていて、互いの生活が常にガ

ラス張りであったという「劇場的な」伝統的ムラ社会においても、その“関係性”のた

ちあらわれ方に変化の兆しが見られるようになってきた。「自分たちもいずれは……」

と考えた家庭内介護の行く末が、いま霞みはじめている。

 

 幕末に日本を訪れた各国の宣教師らが書き残した日本についての報告書を読み、ヨー

ロッパの学者は「日本の農村」を評して「自主的自治圏」と言った。介護が単に「権利

」の問題としてだけではなく、自分たちの家や里山を火災から守る消防団活動と同じよ

うな「自治」の課題であるとしてみよう。すると、いかにして自前で取り組んでいくの

か、という共同体としての意志と行動力が問われていることになるだろう。

 

 「介護の社会化」という美しい言葉は、いま、村に大きな課題を突きつけているので

ある。

 

 

 

 多元多様な魅力ある生き方を貫く姿勢こそ、村に伝わってきた素晴らしい財産なのだ

と思う。そうした生き方を継続可能にするためにも、浅薄な都市の“匿名性”に負けな

い豊かな“関係性”を再構築して、村の再生に役立てていきたいものだ。

 

 村での“関係性”のありようは、急速な変容と稀薄化の渦中にある。とはいえ、それ

は都会におけるそれよりも、はるかに濃い。

 

 あえて挑発的に述べよう。本当の「介護の社会化」を実感するためには、必ずしもヨ

ーロッパに行かずともよい。日本の山の村に来て、多少の不便さの中で人と人の“関係

性”のありようを学び直すことこそ、まず必要だろう。

 

 四月。公的介護保険制度がスタートする。都会の人とは老い方、死に方において作法

の異なる村人たちに、“匿名性”の介護はどう浸透していくのだろうか……。

 

 

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