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下のお世話

 

朝日新聞 長野県版連載

風のひと、土のひと 第1回

(2000年5月11日)

 

患者さんの下(しも)の世話を医者が担うことは少ない。ふだんは看護婦さんまか

せとなっている。しかしある特別の場面で、印象的な「大便(だいべん)様」との出

会いがある。

 

皆さんはご存知だろうか。

 

それは亡くなった患者さんのご遺体の最後のケアする時である。

最近では自宅でご老人を看取(みと)ることが少なくなったせいだろうか、

この大事なケアについて無頓着というか、ご存じない家族に時々おめにかかる。

 

度重なる往診に続いて、いよいよ私たち医師があたまを下げたとき、どうしよう。

つまり90歳代のご老人が、たとえば皆さんのおばあさんが、ご自宅で息をひきとった

際、

皆さんならどう動かれるだろうか。

 

しばらくの間をおいて、私はご老人の肛門に綿をつめ、女性であれば陰部にもつめ、

鼻と口にも綿をつめて、下あごをきちんともちあげて口を閉じるようにする。

そしてからだをタオルで清めてから、両手を胸の上で組んで固定する。

時には硬直がくるまでの間、紐で固定することもある。

 

この一連の「作法」を故人が喜ぶのかどうか、全く不明である。尋ねようもない。

しかしある時、数時間家族まかせにして、ふとんが大便だらけになったことがあるので

、私としては、積極的にとりくまざるをえない。

 

 また、私ひとりでこの作業をすることは稀(まれ)で、ほとんどの場合その場に居合

わせている

女衆(おんなしゅう)、つまり動けそうな女性方に声をかけて、いっしょに取り組むこ

とが多い。

 

なぜ女性に声をかけるのだろう。

それは無難だからであるが、この、うんちだらけになる作業がはじまるときが、それぞ

れの家人と

故人になった方との、人間的なつながりのありようがよく分かる瞬間なのである。

 

母親を慕う息子は、すすんで身を乗り出して取り組むし、台所にかくれてしまう何人

かもいるわけだ。

故人と各人との長い長いつきあい、他人には容易に介入できない人生の総決算の時、と

私は考えている。

 

前後して、私は村の診療所にもどり、「診断書」を書くことになる。

大往生のときは、私なりの故人への思いで書き上げる。

ひととなりを知る故人であればあるほど、書くのに手間どってしまう。

逆にいえば、はじめて往診して看取ることになった方の場合など、思い入れなく書ける

というものだ。

 

山の村では、出会いと同様、別れも個別のものである。

 

 

 

 

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