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家族旅行

 

朝日新聞 長野県版連載

風のひと、土のひと 第2回

(2000年5月18日)

 

 病院に駆けつけたとき、青年の意識はすでになかった。

 

 人工呼吸器の単調な音が、くりかえし耳に響いた。「重患者室」と韓国語で書かれ

た集中治療室に死線期のノーマンはいた。

 

 二カ月前、ソウル市近郊の工業地帯で、工場の屋根が吹き飛ぶガス爆発があった。

腹部に鉄片があたって、背骨と腸と両方の腎臓が引きちぎられた。快活なノーマン

は、笑顔で数回の開腹手術と隔日の血液透析に耐えていた。それが急に意識がうすれ

痙攣(けい・れん)を起こして私が呼ばれた。初めて会った時、彼はすでに危篤状態

だった。

 

 私たち家族三人は、中国・天津に渡るフェリーを待って、韓国・ソウルに滞在中

だった。前年の一九九二年、中国と韓国は国交を結び、船が直行するようになってい

た。

 

 ソウル在住の私の友人に関係者が相談したことをきっかけに、私に声がかかった。

労災事故後の息子の、長引く入院を心配して、パキスタンから父親が来韓した。そ

の前夜からノーマンは重体に陥ったが、ソウルは春の連休に入っていて担当医は不在

だった。

 

 妻と二歳の息子の手を引いて高麗医科大学付属病院に向かった。白衣に着がえて集中

治療室に入り、カルテの英文を読みながら、到着した父親に病状を説明する。意識の

戻る可能性がほとんどないこと、連休中にも危ないだろうこと……。

 

 二日後ノーマンは死んだ。二十一歳だった。父親は今も私を韓国人医師と考えてい

ると聞く。

 

 出発の日が来た。私たち家族は、何人かのパキスタン人に見送られて仁川東港へ向

かった。くたくただった。食料も何も買わずに乗り込んでしまったことに、出航後気

づいた。

 

 幸いなことに二歳の息子が船内を走り回って、愛敬でバナナやキムチを集めてくる。

二周もさせれば十分な食料が入手できた。息子をかわいがってくれた韓国人青年と一

緒に、上陸した塘沽(タンクー)新港から車で北京市へ向かった。

 

 鉄道で中国大陸を南下し、途中の友人宅に立ち寄りながら、雲南省昆明市から、タ

イ北部に入った。

 

 二歳の息子にとって、タイといえば、ゾウさんである。東南アジアで象使いといえ

ば、カレン民族を指すが、友人の友人がこのカレンの象使いだった。息子はタイの旅

で、短い距離だったが家族で象に乗ったことが忘れられない。彼はまだ日本語がしゃ

べれなかったので、タイ語の「チャン」の方を先に覚えた。チャンがゾウさんのこと

だと知った彼は、ゾウさんの歌をうたうことに夢中になった。

 

 日本に帰ってきてからも動物園やテレビ番組で象を見ると彼は乗りたがる。息子に

とってチャンは見るものではなく、乗って楽しい歩く自動車のようなものなのだろ

う。

 

 タイでは、南方仏教の山の寺に友人の黄衣の僧を訪ねた。村の聖(ひじり)となっ

た彼のめい想は、蓮(はす)の花咲く池の四阿(あずま・や)で行われる。金はある

が忙しすぎる北の国々での「常識」が洗い落とされる。

 

 船や列車を乗り継いで旅をして、象に乗って蓮の花咲く寺院でめい想にふける。こ

んな家族旅行はいかがであろうか?

    

 

 

 

 

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