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     ”ムラ医者”として生きる

 

色平哲郎・南相木村診療所長

 

 

二十数年間、無医村だった長野県・南相木村(みなみあいきむら)の常駐医師と

なった色平哲郎(いろひらてつろう)さん。先端技術を駆使した専門医よりも、

”ムラ医者”であることを選んだ色平さんを通して、

医療の原点ともいえる地域医療の一端を紹介しよう。

 

 

静かな山間に、せせらぎの音が聞こえてきた。

川面を吹き抜ける風に小鳥のさえずりが遅い春を告げる。

 

長野県南佐久郡南相木村は標高約一〇〇〇メートル、

千曲川支流の南相木川流域の山村だ。

平坦な土地が少なく、耕地は村の面積の三パーセントに過ぎない。

過疎指定地域の一つだ。

役場や農協、保育園などが集まる村の中心に、

南相木村国保直営診療所(注)がある。

朝八時半からの診療を前に、長年の重労働で腰の曲がったお年寄りたちが家族の車で、

あるいは杖を頼りに集まってくる。

都会で暮らす孫の様子やゲートボールの成績、

隣近所の話など診療所の待合室が一時賑やかになる。

 

「今日は顔色が良いね。夜はぐっすり眠れるようになったかな」ーー

診療所長を務める色平哲郎医師(四〇歳)が聴診器を片手に診療を始める。

 

 

「無医村の医師になりたい」

 

色平さんが一家五人で南相木村診療所に赴任したのは一九九八年六月だ。

それまでの二十数年間、村は無医村だった。

週に三回、午後の二時間だけ佐久総合病院の出張診療が行われていたが、

人口一三五三人に対して六五歳以上が占める割合が約三四パーセントと

高齢化が進む南相木村では、医師の常駐が望まれていた。

 

色平さんだは有名進学校の開成学園から東京大学に進んだが、

”エリート”としての自分の将来に疑問を感じ始める。

大学四年の夏、自分を見つめ直す旅に出た。

世界各国で、豊かではない暮らしの中にも、

お互いを思いやる厚い人情に出会う。

帰国した色平さんは東大を中退、家を飛び出して日本各地を放浪する。

キャバレーの住み込みや、パン職人、「土工」などの仕事を経験する中で、

教科書では習うことができなかった生身の人間が織りなすドラマに感動を覚える。

八十三年、京都大学医学部に入学する。

医学生として訪れたフィリピンで、生涯の親友となる

バングラデシュ出身のスマナ・バルア医師と出会った。

一緒にレイテ島の農漁村を回って

「先端技術を駆使して難病と取り組むより、無医村の医者になりたい」

と、卒業後の進路を決めた。

 

南相木村診療所の仕事は外来診察だけとどまらない。

午後から診療所の軽自動車を運転して、狭い山道を巡回診療に回る。

 

「こんにちは、えいさん居るかい。薬持ってきたよ」。

大声で呼びかけながら玄関を開ける。

「先生、今日は早かったね。早くあがって、外は寒いから」。

待ちかねたように高見沢えいさん(八十七歳)が出てきた。

 

「最近調子はどうですか。この家では、昔お蚕(かいこ)さんを飼っていたんだよね」。

血圧を測りながら、患者の話に耳を傾ける。

診療の合間にも家族のこと、畑のこと、

時には数十年も前の出来事を昨日のことのように話す。

 

 

医療のめざすべき方向は

 

老人たちから伝えられる遠い記憶ーー

口減らしのために子守り奉公に出された思い出、

関東大震災から逃げてきた被災者に、朝鮮語を国語とする人たちが発音しにくい

「五五円、五〇銭」と発声を強いて「井戸に毒を入れて歩く朝鮮人」を探したこと、

肉弾となって死んだ戦友の思い出、満州(現在の中国・東北地方)に

入植して初めて白米を食べたこと、

引き揚げ体験、などが語られる。

 

体に埋もれた時代のうねりを感じ取るのが診療所の医師の役目です」と、色平さん。

 

南相木村への赴任前は、隣村の野辺山(のべやま)へき地診療所に勤めていた。

そこで担当した村の最高齢者の井出沢つる代さんは、昨年亡くなったが

今でも色平さんの「心のカルテ」に残っている。

つる代さんの自宅のベッドの上には米寿のお祝いに一族全員で撮った写真が飾られてい

た。

孫の孫まで数えると一〇〇人以上にもなる。

 

「女性としてこれだけの数の一族を生みはぐくんだ彼女。

そういう一族としての長としてのカッコよさ、重厚さへの尊敬の気持ちで相手を見つめ

た場合、残念だけれども、今回“九九歳“で看取ることになった、という納得が生じてきた」

と当時を振り返る。

 

過疎化と高齢化が進む南相木村では、七〇歳を過ぎてもまだ現役として農業に携わって

いる逞(たくま)しい”百姓”の姿を見ることができる。

お年寄りたちの表情は実に溌剌(はつらつ)としている。

 

「病気を治すだけではなく、病気にかからないようにとりくむのも医者の仕事だ」

と話す色平さんは「今の日本の医者はプライマリー・ヘルス・ケアとプライマリー・ケ

アの違いもわからない」と苦言を呈する。

プライマリー・ケアは医療に重点を置いて医師がとりくむ初期医療であるが、

プライマリー・ヘルス・ケアは、保健活動を含む総合的・包括的な幅広い健康に関する

地域住民の活動を指す。

病気の予防と健康増進も図るため、医療費の抑制などの効果も期待できる。

 

「ただの隣人として担当した患者さんを訪問しておくことが大切」

という色平さんは、村民に自宅の電話番号を知らせてある。

診療所に勤めるムラ医者として、診療時間以外でも気楽に健康相談に応じるためだ。

 

「医療と介護はもちろん違います。しかし、もう治せないとなった場合、

医療も介護や福祉と同じ方向を見つめる目を持つことが大切ではないでしょうか」

と色平さん。

 

「先生、また来てね、待っているから」。

訪問診療が終わると、満面の笑みを浮かべて、

おばあちゃんがお土産のミカンを手渡してくれた。

 

(注)国民健康保険法にある保健事業活動の一環として、国民の健康増進、

疾病予防を目的とする。特に国保加入者が保険料を支払いながらも、

診療を受ける機会がない僻地に開設される。

 

 週刊金曜日に掲載

 

(以下、写真がなくて申し訳ありません。雑誌には載っているのですが。)

写真・文 吉田敬三  一九六一年、長崎県生まれ。 フォトジャーナリスト

 

 

写真キャプション

 

「80歳を過ぎたら一人前の年寄り」という菊池チイ子さん(76歳)も現役の”百姓”だ。

村人に冗舌な人はいない。患者さんの何気ない言葉や小さな仕草を見逃すと誤診につながる。

 

JR小海駅と村を結ぶ村営バスが、唯一の公共交通機関だ。

 

村の入り口に建つ「不戦の像」。兵士や開拓民として多くの村人が満州に渡った。

 

「本当にいい先生にきてもらって安心だ」と語る元村長の倉根七郎さん

(77歳)はシベリア抑留体験を持つ。

 

遠くに八ヶ岳連峰を望む南相木村は、700年以上の歴史を持つ山村だ。

 

”ムラ医者”としての活動を支える家族。

 

「先生、また来てね」と笑顔で見送る高見沢えいさんは

月1回の訪問診療を心待ちにしている。

 

 

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