本物の勇気

すべてさらけ出し生きる

どこまで続く泥濘(ぬかるみ)ぞ 三日二夜を食もなく 雨降りしぶく鉄兜(かぶと)
……

9年前の春、佐久病院での研修医生活を終え大学に戻る私を、
若月俊一院長(当時)が、わざわざ送別の宴を開いて、歌って送り出してくれた。
この歌は、中国戦線の惨状をあまりにリアルに描き、
その厭(えん)戦的な曲調を当時の軍部に嫌われ禁止になったという
軍歌「討匪行(とうひこう)」だ。

歌い終わった先生から突然、
「君、『楢山節考』は読んだかい」と質問が向けられ、戸惑った記憶がある。
深沢七郎著「楢山節考」は、70歳になったおりんばあさんを息子の辰平が、
冬の雪の「お山」にすてにいく話だ。
若月先生はこう言った。

「文学としてはともかく、歴史的存在としての『お山』は、
感傷的にも、医者として決して認めることはできない。
僕はそう思う。
君はどう考えるか」

この時私は、乗り越えるべき対象としての「お山」を心に刻んだ。

その後、私は信州に戻り「ムラ医者」になった。
ここ南相木の、根雪がかぶった冬の山々の素晴らしい夕焼け空を眺めるたびに、
「お山」について若月先生が語った指摘を思い出す。

「すべて人の手を借りて、ずうずうしくも堂々と、しゃーしゃーと生きていくんだ」。
地域で人々に支えられながら生きる、ある重度身障者の言葉であるという。
これは、わがまま勝手な理屈なのだろうか……。

ある映像作品では、「なぜ、施設を出たのか」と障害者に問うた。
「自分だけの時間と空間、そして自由な人間関係がほしかった。
施設を出て、人とともに生きる生活に満足です」との答えだった。

障害を持つ者が街で暮らすためには、多数の学生ボランティアや介助者の確保が不可欠
であり、
介助を受けることで、自分の生活すべてを他人にさらけ出す生き方にならざるを得ない
。彼を担当したあるボランティアもまた、
「彼の前では自分を飾らずに生きることを学んだ」と語っていた。

医学・医療の発達に伴い、人生の一時期、障害を背負って生活することになる可能性は
、だれにとってもますます高くなっている。
思うに、「障害者問題」などと一口に言っているが、障害が問題を作り出しているわけ
ではない。
障害を背負った彼と、彼をとりまく環境、その両者の「間」にこそ問題が噴出する。
社会が抱える偏りやズレは、その社会が決めつける「異分子」の姿を通じて、
鏡のようにあぶり出される。

妙に自立を強要するくせに、何かあるとすぐ「お山」としての施設へ……。
世間一般の無理解にもかかわらず、日常のすべてをさらけ出し
「自らの生」を生き抜こうとする主演の彼の姿に、私は本物の勇気を感じた。


60数回にわたった連載は今回で終了となる。
以下、筆者の私について妻がかつて書いた文章をご笑覧いただき、
20ヶ月のお付き合いに感謝しつつ閉じることにしたい。

私達が結婚したころ、結婚するなら「三高」の人という言葉がはやりました。
私の場合「三高」どころか背が低い、学歴なし、収入なしの「三低」(学生結婚だった
ので)。
おまけに短気、単純、短足の「三タン」にもかからわず、
うまくだまされ結婚届に印を捺してしまいました。
家庭での彼は……

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