東洋人であること学ぶ


京都での学生時代以来、多くの旅をした。
海外にも出かけた。
旧ソ連で少数民族の人々と知り合い、東南アジアや中国では辺境を訪ねた。
当時はまだ冷戦下で、入国できない国もあったが、できるだけ農村漁村を訪ねた。

マレーシアでは、マラッカ海峡の港町メラカ郊外に住む中国系の大家族に
一週間世話になった。
私はマレーシアにも「母親」がいるのだ。
そこの長男がつぶやいた言葉は忘れがたい。
「この国にはマレー人第一主義の国是がある。
(中国系の)自分は大学に進学できないと思う」

フィリピン・マニラの国立大学では、留学生宿舎に居候した。
世話になったのはイラン人、イラク人、ヨルダン人のイスラム教徒三人組みだった。
当時イラクとイランは激戦中だったのだが、毎日いっしょにビールを飲んだ。
ヨルダン国籍だったパレスチナ人の一人は、イスラエルの国語であるヘブライ語ができ
た。
なぜか、と聞くと「敵の言葉がしゃべれないと生き残れない」との返事だった。

旧ソ連で出会った人々も、忘れられない。
84年2月、シベリアのイルクーツクは零下25度。
一方、中央アジア・ウズベキスタンのフェルガナ盆地の砂漠は暖かい。
げたをはき、浴衣で、帯を締めてオアシスの街を歩いた。
行きかう地元の少年たちが「カラテ、カラテ」と呼びかけてきた。
街の中央のバザールには、朝鮮人のおばちゃんがたくさんいて野菜を売っていた。
戦前、日本の支配を逃れて沿海州に移住した朝鮮人たちがさらに中央アジアに強制移送され、
ここで野菜栽培で成功したのだ、と聞いた。

フェルガナ盆地の遺跡の街コーカンドで知り合ったアルメニア人はいい男だった。
さんざ夜遅くまで飲んで騒いだ後、翌朝、私の出発前に改めてホテルにやってきて、
18年もののアルメニア・コニャック2本を土産にくれた。
アルメニア民族の誇りなのだという。
彼はカフカス山脈のキリスト教国であるふるさとを離れ、異郷のイスラム教国でひとり
働いていた。
今もアルメニアというと、彼のことを思い出す。
しかし当時は「共産圏」。
ほかの地域での場合と異なり、別れる時はとても残念だった。
二度と再会はできないだろう、その時そう感じたのだ。

旧ソ連の旅では、カザフ人やモンゴル人が上手なロシア語で、
ロシア人への違和感を語った。
思い出深いのは、ドイツで出会ったトルコ人も、旧ソ連で会ったカザフ人やモンゴル人
も、
それぞれにドイツ語やロシア語で「黒い目ですね」と私に言ったことだ。
「同じ黒い目をした東洋人」ということで、仲間として話しかけたようだ。
しかし当時の私は、自分がアジア人であることを忘れていた。

81年イタリア・ベネチアから鉄道で国境を抜け、
旧ユーゴスラビア・イストラ半島先端のプーラという港町から
ギリシャのイグメニーツァまでアドリア海を船で旅した。
米国シカゴに住んだことがあるセルビア人の明るい青年とずいぶん話した。
親しくなったクロアチア人の女の子にも質問した。
船から見える沿海の山々の白いところを雪かと問うて、「岩だ」と聞き、大変驚いた。
セルビア語はロシア語と実に似ているというのに、ロシア語で話すと露骨に嫌な顔をされた。
その後せい惨な内戦を戦うことになるセルビア人とクロアチア人の関係は
私の目には何の問題もないように見えていた。

旅で、さまざまな人種、民族、宗教の人々との出会いがあった。
いろいろな考え方の人々と知り会った私は結局、
日本人である自分が東洋人でありアジア人であることを学んだのだと思う。

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