親不孝の系譜

選び取る「自分の生き方」

我が家の長男は、私たち家族の暮らす山の村の小学校5年生である。
毎日、近所の人たちにあいさつしながら歩いて学校へ通っている。
通学する彼の姿を見ていると、私自身の少年時代との対比を思う。
30年前の私はサラリーマン家庭の長男で、
東京の農村地帯に出来たばかりの住宅地に住んでいた。
以下は私の記憶というより、後になって母から聞かされた当時の私の発言である。

「おかあさん。
一度上った生活水準は、なかなか元へは戻らないんだ。
こんなぜいたくな食事は作るべきじゃない。
質素なものにして倹約し、将来に備えて下さい」―。
10歳の私は日ごろ、母にこうアピールしていたという。
石油ショック前の景気が良かったころだったので、
母親にとって印象深いことだったようだ。
可愛くない「親不孝」発言として記憶に鮮明なのだろうか。

また、小学2年のころの私は悪ガキで、母親は頻繁に学校に呼び出されていたという。
階段の踊り場から、下を通る級友に小便を浴びせる。
上級生の教室へ行って、壁に飾ってある作品や工作を壊す。
さまざまな「罪状」で呼び出されたというのだが、私はまったく覚えていない。
その後成人してからは、大学を中退し、家出までした。
このような「親不孝」にはまったく言い訳ができない。

我が家の息子たちにも「親不孝」の系譜は伝わっているのか心配になった。
長男は「僕は、おいしいものを食べるために生まれてきたんだ」
と妻にアピールしているそうだ。
妻によると、毎年秋、お米を新米に切り替えた時、すぐに新米と気がつく長男と、
「そうか?」という私との対比は実にクリアだという。
息子は言う―「僕は違いのわかる少年だ」。
私の場合は少年のころ、食事について「うまい」「まずい」は言ってはならない、
としつけられたものだが、もちろん長男の方がまともな感覚だろう。
少なくとも「親不孝」は伝わっていないようで、良かった、助かった。


先日あるインタビューで、どうして大学を中退したかと問われ、だいぶ返答に苦しんだ。
「親不孝」にして、連戦連敗だった恥多き半生を思い出したからだ。
「東大は役人養成の場で、在野で自分の力でがんばるという感覚がない。
お上(かみ)や大企業の中に座り心地のいい場所を見つける生き方が嫌いだったし、
僕にはまったく合わなかった」と答えた。

なぜ医師の道を志したかとも問われた。
「とにかく医者にだけはなりたくなかった。
それどころか、鼻の高いこんなしょうもない連中を、
どうして世間は許しておくのかと思っていた…」。
そう振り返っているうちに、
大学中退後に世界各地を放浪する中でのさまざまな出会いを思い出した。
「学歴とは全然関係のないところで多くの人々が生きている。
そして、漠然とながらも医学というのはアジアや
外国の辺境に行けば民衆のために役立つのではないかと思った」と答えた。
妻は今「あなたには医者以外は、とても勤まらないわ」と言っている。


医者になって山の村に暮らすことで、また新たな「親不孝」が始まったようにも思う。
村に住むことが存在意義となる「ムラ医者」にとって、
自分がいない時間帯の村が無医村になることははっきりしている。
村人の死に目には出会えるが、自分の親のケアは他人任せとし、
死に目にもあえないであろうからだ。

我が家の娘や息子たちには「親孝行」でいてほしいと望む一方で、
自分の生き方を自分で選び取っていく人生を期待している。

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