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生きるという現実 −−人生は旅である−−

 

「ひもじさ」を忘れた日本人へ

 

●長野県南相木村診療所長 色平哲郎

 

世界を放浪した後、医師となり、へき地医療に従事するかたわら、

NPO(民間非営利組織)活動を続ける色平哲郎氏。

世界と日本、都市と農村、それぞれが抱えるズレやギャップという現実にメスを入れな

がら、

現代日本人に見えにくくなっている「生き方」に言及する。

 

色平 哲郎 いろひら・てつろう 長野県南佐久郡南相木(みなみあいき)村診療所長

、内科医、NPO「佐久地域国際連帯市民の会(アイザック)」事務局長。1960年神奈

川県横浜市生まれ、39歳。東京大学中退後、世界を放浪し、医師を目指し京都大学医学

部へ入学。90年同大学卒業後、長野県厚生連佐久総合病院、京都大学付属病院などを経

て長野県南佐久郡南牧(みなみまき)村野辺山へき地診療所長。98年より南相木村の初

代診療所長となる。外国人HIV感染者・発症者への「医食住」の生活支援、帰国支援

を行うNPO「アイザック」の事務局長としても活動を続ける。こうした活動により95

年、タイ政府より表彰を受ける。

 

人間はいつまでも生きられるわけではない。

ですから、どう看取られるのかということは

一人ひとりにとって非常に重要なことです。

村の人々は「死に方の作法」を心得ているから清々しささえ感じます。

これは都会人と大きく違いますね。

 

@いま日本にいる外国人が、戦前の日本人が体験した苦労と同じ苦労をしているにもか

かわらず、日本人はそれに気づいていない

A日本人は、古くからなんでも自分でできる「百姓」として生きてきた。だからこそ、

共同体であるムラが存在していた

B「心のカルテ」に残る患者さんをどれだけ持てるか、それが医師としての「お金持ち

より心持ち」の生き方の証

 

 

放浪生活から実感した世界の広さ

 

 私は中学時代には、医者にだけは絶対なるものかと思っていました。中学、高校と開

成学園という進学校に通っていて、同級生の医者の息子の家に遊びにいくと、大きな家

に住んでいて、なにからなにまで、私のようなサラリーマン家庭とは雰囲気がまるで違

う。親が医者だというだけでこれだけ恵まれているのか、「これは許せん!」と思って

しまったわけです(笑)。

 

 それで東京大学では工学部で化学を専攻しました。しかし、大学三年のとき、このま

まいくと、工場の技術者か企業の研究者になるだろうというのが見えてきた。実験室は

嫌いではなかったけれど、そればかりだと人と付き合うことが少なくなるな、世間が狭

くなるななどと考えているうちに急に大学に行きたくなくなってきたのです。二十歳そ

こそこでスチューデントアパシー(無気力)になってしまったのかもしれません。

 

実際に大学を中退してドロップアウトしてわかったんですが、二十歳代の健康な若者

が無職というのは世間から見れば、かなり「不気味な存在」なんですね。しかし、あえ

てそういう宙ぶらりんの時期でなければ、自分の人生の道を決めることはできないだろ

うと思って、親不孝し続けておりました。

 

 以下のことは多少なりとも私の生き方を左右したと思うのですが、私の最大の趣味は

「歴史」を学び追体験することなのです。歴史に関心を持ったのは、高校時代のある日

突然、いま本の中で勉強している場所や人々はいつか訪ねることができるんだ、触れ合

うことができるんだ、と気がついたからでした。「パリやモスクワそれからアジアって

どんなところだろう、ぜひ大学生になったらこの目で見てやろう」と思いました。その

ときのために事前に研究しておこうという意欲が出て、がぜんのめり込んで歴史の本を

読み進んでいったのです。

 

 それで大学を中退する夏、二十一歳のときにシベリア鉄道の旅に出ました。横浜から

船でナホトカまで行き、シベリア鉄道起点のハバロフスクで乗り換えてモスクワへ。そ

こからヨーロッパに二カ月ぐらいいて、帰りにインドとタイに寄って帰国しました。

 

 この旅では思い出深いさまざまな人に出会いました。シベリア鉄道でコンパートメン

トに乗り合わせた、ロシアの大学に留学中のモンゴル人の女の子二人組、そのあと乗り

込んできたカザフ人のおばあさん、母親と三歳の女の子の三世代家族。ロンドンのユー

スホステルでは、独裁政権下のカリブ海の島国ハイチから亡命してきたハイチ人の青年

たち。ベルリン行きの鉄道で出会ったドイツで外国人労働者として働くトルコ人のおじ

さん。当時のユーゴスラビア、イストリア半島先端のプラという港町からギリシャのイ

グメニッツァまで行く船旅では、セルビア人の青年とクロアチア人の綺麗な女の子との

出会いもありました。マドリッドからパリまでの国際列車ではモロッコ人の大学教授と

同じコンパートメントに乗り合わせたりもしました。

 

 私は、彼らの歴史を勉強していたから知識として頭ではわかっていました。しかし、

実際に人々と触れてみてショックを受けることも数多くありました。

 

 例えば、シベリア鉄道のモンゴル人民共和国の女の子たちは、ロシア語がとても上手

だったけれど、やはりロシアに対する違和感が明らかに伺えるんです。モンゴルという

国は世界で二番目の社会主義国として旧ソビエトの介入下に成立し、インナーモンゴリ

ア(内モンゴル)という中国の勢力下にある地域とは切り離されている分断国家−−ま

さに歴史で勉強した通りだと感じました。カザフ人の三人家族もロシア人に対する感情

は複雑です。お母さんはロシア語がうまいが、おばあさんは少しだけ。後で考えれば、

ソビエト連邦は崩壊しカザフスタンは独立するわけですから、ロシアに対して複雑な民

族感情があったのは当然です。

 

 デュバリエ独裁政権から亡命したハイチ人は、亡命者として認めてくれたイギリス社

会に感謝こそしているものの、やはり白人社会では異邦人なわけです。外国人労働者と

してドイツで働くトルコ人もドイツ語はペラペラでした。けれど彼らは、イギリスに対

して、またドイツに対して非常に辛辣な批判をするわけです。「しょせん、自分たちは

セカンド・シティズン(二級市民)扱いだ」というのです。モロッコの教授は旧宗主国

のフランス語で教育を受けていました。フランスの高等教育を受けたから大学教授にな

っている彼が、「フランスについてはいいたいことが山ほどある」と一晩滔々と語るの

です。

 

 

「医者になれば辺境地で役に立つ」

 

 思い出深いのは、モンゴル人もカザフ人もトルコ人も、私に「黒い目」ですねといっ

た。同じ黒い目をした東洋人だというわけです。だから彼らは、親近感を持って私にい

ろいろ話しかけてきたのでした。そこで、私は「黒い目」「アジア人」ということにつ

いて、生まれて初めて身に染みて考えるようになったわけです。

 

 この旅のあと、結論として感じたことは、「人間は、ときには他者の言葉を必死にな

って学ばなければ生き残れないんだ。しかし、それはしょせん敵あるいは他者の言葉に

すぎないのだ」ということでした。

 

 また、そういう人々に出会ったときに、私が思いをはせたのは、わが日本のことです

。たぶん日本でも日本語を他者の言葉として違和感を持って使い続けている人たちがい

るだろうということでした。

 

 この海外旅行から帰ってきて、私は大学を中退し、家出して日本のあちこちを放浪し

ました。茨城県のキャバレーで住み込みで働いたり、都内のパン工場や大学生協食堂で

も働いた。北海道の牧場でも、夏、アルバイトしました。

 

 キャバレーのオーナーは在日朝鮮人でした。そこには沖縄から出稼ぎに来ていた女の

子が四人いて、同じ寮にしばらく暮らしました。まだ、日本にフィリピンの人がやって

くる前の時代でした。沖縄の女の子たちは、仲間内では沖縄の言葉で話していて、私に

は全然わからないわけです。そこでの暮らしで、日本にも少数だけれど、日本語に違和

感を持って暮らしている人々がいると実感できた。そしてパン職人の世界をはじめ、学

歴とは全然関係のないところで多くの人々が“どっこい”生きていることがわかった。

当たり前のことなんだけれど私は世間が狭かったから知らなかった。海外を少し回って

、日本をうろついているうちに、そういうことがだんだんとわかるようになってきたの

です。

 

 私は、医者というのは、なにか鼻が高くて嫌なやつだと思っていたけれど、漠然とな

がらも医学というのはアジアや外国の辺境に行けば民衆のために役立つのではないかと

思ったんです。それに、広い世間のいろいろな人と付き合ううえで、医者であることは

「とっかかり」になる。端緒ができるわけです。それで、医学部に行こうと思ったので

す。

 

 

「死に方の作法」を心得た農村の人々

 

 私が、無医村の医者になろうというイメージを固めたのは、医学生のとき−−確か三

回目のフィリピンの旅でしたが−−フィリピンのレイテ島で偶然バングラデシュ出身の

スマナ・バルア(通称バブさん)に出会ったことが大きく影響しています。バブは、七

六年に日本に医学を学ぶためにやってきたのですが、先端技術を駆使する日本の医療現

場を見て、「とても故郷の村にこんな機械は持っていけない」と思い、人づてに知った

フィリピン大学医学部のレイテ分校に勉強に来ていたのです。この医学校は、日本でい

えば自治医科大学のようなものですが、かなり厳しい現実の中でつくられたものです。

医者や看護婦の都市集中と海外流出に悩んだフィリピン政府が農村の保健医療に従事す

るヘルスマンパワーを育てる目的で運営されています。週の半分は教室の授業、残り半

分は先輩について実際に村々を巡回して手伝うという実践的な教育システムです。

 

 私は、バブと話し合ったり、彼の現場を見て回るうちに、だんだんと地域で医者とし

て働くということがイメージできるようになってきた。そこで、「私も同じように地域

医療の道に進みたい」と話したところ、バブは「日本には佐久総合病院があるよ」と教

えてくれたのです。後でわかったことですが、レイテ分校は、佐久総合病院の若月俊一

総長の「農村医科大学構想」に共鳴したフィリピン大学医学部が提唱してつくったもの

だったのです。

 

 いま日本の村で診療を始めてみると、これまで趣味としてやってきた、歴史とか文化

・言語あるいは「広い世間を知りたい」という私の思いが、学問として学んだはずの医

学という自然科学と“スーッ”と一緒になってくることを感じています。

 

 もちろん基盤に医療技術がなければ困るわけですが、厳密なことが日々要求されてい

るのではなく、高度医療が必要な際は佐久病院に転送すればいい。その見極めが遅れな

いことが大事なのです。それよりも、私がムラの歴史や文化、生活する村人の人となり

に関心を持っていることが大切で、こちらが関心を持てば持つほど、村の人々は歓迎し

てくれるのでした。そうすると私はもっともっと、このおじいさんやおばあさんはどん

な人なんだろうと知りたくなる。「人と人」「人間と人間」という関係性を楽しめるよ

うになると、高齢の方については「この人はここで看取ってもいい」という妙な自信も

生まれてくるんです。“生きる”ということについてこの人はこう考えているとわかっ

てくると、「ここで私が看取ってあげたい」とさえ思えてくるのです。

 

 南相木村に赴任する前に勤めていた野辺山へき地診療所では、村の最高齢のおばあさ

んを看取りました。彼女の自宅のベッドの上には一枚の写真が飾ってありました。米寿

のお祝いのときのもので一族全員が写っていて、孫の孫まで数えると百人以上の子や孫

がいる。この写真を前に周囲の近親者の語りに耳を傾けていると、このおばあさん−−

「つる代さん」の人となりが自然に浮かび上がってきたものでした。そういう一族の長

としてのカッコよさ、重厚さへの尊敬の気持ちで相手を見つめた場合、残念だけれども

、今回“九十九歳”で看取ることになったという納得が、こちらにも生じてくるのです

。みな長生きしてほしいけれど、人間はいつまでも生きられるわけではない。ですから

、どう看取られるのかということは一人ひとりにとって非常に重要なことです。村の人

々は「死に方の作法」を心得ているから清々しささえ感じます。これは都会人と大きく

違いますね。

 

 私は、大学病院でも修業していたから多少わかるのですが、都会だとどうなるかとい

うと、結局患者さんは「一見さん」なんです。名前こそついているけれど背景のない単

なる「患者さん」にすぎない。例えば、交通事故や緊急事態で救急車で病院に運ばれる

。そこに内科医がいれば内科的治療になるし、外科医がいれば頭を開けられる、麻酔医

ならICU(集中治療室)に入れられることになる。それは、そのときの当直医がだれ

であるかの偶然で決まってしまう。患者さん自身がどういう人生観を持った方であるか

とは関係なく、生物学的に治療が進むわけです。どういう「看取り」をしてほしいとか

、リビング・ウィル(尊厳死)もなにもあったもんじゃないというのが都会の医療なん

です。特に都会の夜間というのは医療の砂漠状態といってもいい。

 

 

“腹”で理解するということ

 

 私は、アイザック(佐久地域国際連帯市民の会)という外国人労働者の「医食住」を

支援するNPOの事務局長をやっています。九〇年に初めて長野県東部にある佐久病院

に来たときにびっくりしました。タイ語が街に溢れているんですから。長野冬季オリン

ピック開催が決まって、新幹線、高速道路ができる、いろんな関連施設ができる、その

工事現場の飯場で外国人の男性が働き、町のスナックで女性が働いていたんです。

 

アイザックは意気込んでつくろうと思ってできたものではないんです。シリアスにやっ

ていたわけではなくて、自然と口コミで広まっていった。いまの佐久地域には、タイ人

、フィリピン人やイラン人労働者が住んでいます。当時はボリビアやペルーの日系人が

零細工場の労働者として多数働いていました。

 

 バブルの華やかなころは、外国人労働者を単純に働き手として日本経済発展のために

国内に入れようという考えがあったようです。しかし、人間というものは結婚をする、

子どもができる。それが当たり前なんです。生活しているんですから、病気になったり

、流産したり、交通事故や家庭内での喧嘩、互いに言葉が通じない夫婦の子育て問題…

…、いろいろなことが出てくる。英語がしゃべれる、スペイン語も多少できる医者がい

るということが口コミで外国人労働者の間で広まって、たくさんやってきました。そこ

で人脈を集めて、ネットワークとして一緒にやろうということになったわけです。近く

の教会で日本語学校を始めたり、タイやフィリピンから友人の女性のケースワーカーを

呼んできて悩みを聞いてもらったり、事件や事故が起きると弁護士も必要です。そうや

って外国人や日本人の人脈をつくり上げて、足りないところをお互いに補って対応して

いくわけです。

  

 例えば、四十歳のボリビア人女性がクモ膜下出血で救急車で運びこまれてきたことが

ありました。私はスペイン語は少ししかできないので困ってしまった。私のつくった日

本語学校に通っていたボリビア人の青年で英語ができる方がいたのを思い出して、自転

車で来てもらって英語からスペイン語に通訳をしてもらいました。こうして、現場で対

応するためのネットワークが広がっていきました。

 

 「外国人労働者問題」といって、彼らのほうにこそ問題があると、当時の新聞その他

の論調がありました。私は、この問題の立て方は間違いだと思っていました。ある「場

」に後になって別の人たちが入ってきたから、そこで問題が見えるようになってきたん

です。好むと好まざるとにかかわらず、そこには関係性が生まれている。言い換えると

、外国人労働者は日本社会を映す鏡だといえます。鏡なんだから、鏡に映ったものが問

題だといったときに、そこには自分たちの顔、すなわち「日本社会のありよう」が映っ

ているわけです。

 

 私たち若い世代は豊かなことが当たり前として育ってきています。だから、アジアや

南米から日本に働きにきている外国人との心理的な格差は非常に大きいわけです。戦前

の日本人ならば、テレビ番組の「おしん」そのままに「ひもじさ」を知っていたし、心

底から自分たちもまたアジア人だと思っていた。残念ながらいまの日本人は、自分たち

をアジア人だと思えなくなっていますね。

 

 戦後の日本は敗戦で一度すべてをご破算にした後、村々から都会に人材を集めてやっ

てきた。頑張って働けばどうにかなる、競争して勝ち抜けばどうにかなると、勤勉に働

いて富と地位を得るのが人としての使命であると。

 

 その結果すべてが「お金」で仕切られる社会になってしまった。戦前の日本人が海外

へ移民したり満州への開拓団で味わったひもじさや苦労と同じ苦労を、いま日本にきて

いる外国人が味わっているということが、世代間が断絶していて伝わらなくなっている

んです。自分が苦労したことが心に刻まれていれば、相手の状況が推し量れるはずなん

ですが……。

 

 ところが、例えば「歴史」を勉強しても、すでに文字になっている歴史、教科書で眺

めた年号だけの歴史では、頭でわかるだけで“腹”では理解できていない。だからこそ

、このような村に暮らして、住んでいる人々が語る“ものがたり”の中から、日本のい

まの繁栄を成り立たせている「ひもじさの歴史」「腹に響く歴史」を学びとることが大

切だと思うんです。

 

 

最後に残ったことは「どうやって看取るか」

 

 ある若いタイ人女性の最期を看取ったことがあります。彼女はつくづくと「タイのお

坊さまにお会いできないことが残念です」といい遺していきました。このことをきっか

けに私は、友人のパイサン師というタイ人のお坊さんに来日してもらい、佐久地域のタ

イ人コミュニティーを行脚していただき、善光寺まで一週間歩いての頭陀修行に取り組

んでいただきました。

 

 タイの僧侶は、二千五百年前から続く二百二十七に及ぶ厳しい戒律を守っている聖職

者です。私ども医師は医療を施すことはできるが、タイ人たちの「心のケア」まではし

きれません。ですから僧侶が求められました。しかし、日本のお寺さんは人が亡くなっ

た後に出てくる葬式仏教になっていて、生きている人間のほうを向いてはいません。日

本では祭壇の死者に向かって読経しますが、タイのお坊さんは生きている人に向かって

お経をあげ、語りかけます。生きている人々の「魂のケア」に取り組む宗教なのです。

タイでは寺と出家者であるお坊さんの存在が、村人の生きる拠り所であり、善悪の基準

の要になっています。

 

 そういうタイの魅力を知らずに、文化的に劣るとか、貧乏な国だと見下すのは、世間

を知らない狭い方々です。タイ人は敬虔な仏教徒なのです。だから、タイ人はお金とい

う現世のうつろいゆくものだけを見てはいません。日本のような金で仕切られた社会で

はないのです。

 

 私は常々NPO、つまり市民の自発的な社会活動に関しては、「お上」と「お金」だ

けの見方では駄目だと思っています。

 

 「お上」は役所のことですが、権限を持っていて予算をつけることができる強力な存

在です。「お金」というのは渋沢栄一のつくった日本の「会社」のことです。明治国家

以来の、中央集権型「官僚システム」と「会社組織」は近代日本の生み出した素晴らし

い二大発明品だと思うのですが、これが成功しすぎてしまったから、いま世紀末の日本

は逆に行き詰まってしまっている。いま明治二十年代に成立した行政村−−それ以前の

村を自然村といいますが−−がガタガタになっている。七百年続いてきたこの自然村相

木郷も高齢化によって消えようかという状態になって、立ち至っている。社会活動の中

でも、お金を注ぎ込んでも仕切りきれない部分(例えば教育や社会倫理の領域)ばかり

がいま残存して社会問題化してきていると考えます。

 

 医師としての感覚でいうと、内科医も外科医も技術的にやれるところは、この間ずい

ぶん取り組んでやり尽くした。すると、残ったのは「どうやって看取られたいのか」「

だれがどんな思いで介護するのか」「死に方はどう選び取るのか」、つまり逆にいえば

「人はどう生きるのか」ということになった。医者など存在しなかった二千年前でも三

千年前でも人はちゃんと看取られていたし、皆で病人をケアしていましたが、いまは医

療関係者だけが専門家としてケアし看取ることになってしまったから、自分で自分の人

生を選び取ることができなくなってしまって、皆困っているわけです。

 

 「お金を払って専門家にお任せする」という心のありようをパターナリズムといいま

すが、この依存心こそが問題であると考えています。

 

 ここで逆説的ですが、私は比較的小さなこの村で唯一の専門家である医師として暮ら

して、非常に楽しい毎日を送っています。村長も村会議長も非常に親身になって相談に

乗っていただいています。それは、議長のお母さんを看取らせていただいたし、村長の

お母さんも毎週往診させていただいているという親しみからでもありましょう。また、

医師常駐と外国人教師の招聘をして国際化を実現するということが村長の公約でしたの

で、いま村の小学校にはオーストラリア人の先生が来て教えています。ここでも私は通

訳として村の役に立つことができます。こうして村のために自分の時間を使って尽くせ

ば、ムラの衆に仲間として受け入れてもらえて感謝される。私は村への奉仕者であり、

同時にある種の権力者でもあるんです(笑)。

 

 けれど、私の機能はお上の仕事でもないし、お金の力で動いているのでもない。だか

らいいんです。私は、診療所を村の中でNPO的にきりまわしていきたいと思っている

。だから、全国からやってくる看護学生、医学生さんたちを含め、来るものは拒まず、

だれでもいらっしゃいなんです。病院も学校もお寺も、本来的にはNPOでありましょ

う。

 

 また、阪神・淡路大震災のときに医者は現場であまり役に立たなかった。あんまさん

や看護婦さんのほうが被災者から喜ばれた。ロウ・テクだけれど、体をさすってくれる

人、つまり「人に近しい」ほうが役に立つということがある。そして、そういう近しい

人にこそ自分の本当の悩みを打ち明けるものだと思います。医者一人で役に立つという

ものでは決してありません。

 

 

百の能力を持つ百姓たちとムラの自治

 

 本来、ムラというものは、「循環性」「多様性」「関係性」の三つを保持した「自主

的自治圏」であったと考えています。関係性については先程も述べましたが、私は村人

全員と親戚付き合いができるくらいになりたいものだと考えています。

 

 循環性とは、ゴミの出ないシステムでしょう。トータルリサイクルのゼロミッション

ということです。廃棄物が出ないし、廃棄物を出しても捨てる所がない。自分たちの故

郷にゴミを捨てるわけにいきませんからね。

 

 そして多様性、これは循環性ともかかわってきますが、百姓は文字通り百の姓だから

なんでもできたんです。明治以降、百姓とは農民のことであると言い換えていますが、

それは社会科学で、頭で考えた言い方であって、百姓は農民であるだけではないんです

。百姓はあらゆることができないと食えなかった。田をつくり、水を引き、炭も焼き、

養蚕や、造林伐採などの山仕事から、子どもを取り上げ、家具をつくり、自分で自分の

家まで建てる。秋には松茸山へ行き、冬には猟をしていますから、野山の動植物に関し

てもほとんど知り尽くしている。「これだけはできます」では駄目で、馬が引ける、牛

も使える、岩でも沢でも大丈夫、マタギやタタラ師の能力まで、もの凄く多様な能力が

必要だった時代。飢餓や餓死の危険と隣り合わせの時代でもあり、すべてを自然から得

て、自然にお返しするというのが「山に生かされた日々」、百姓の日常でした。

 

 ムラには英語でいうとコモンズ、「入り会い」のような有形無形の持ち物、農村共同

体の共有物、そうしたコモンズがあるんです。村祭りや長老たちの語り、伝統芸能や行

事、方言、入会地、慣行、水利権まで含めて守り育て引き継いで数百年を生き続けてき

たもの。これら、いまだ日本語の名前さえないものをきちんと位置づける必要がありま

す。ちょうど江戸末期に欧米から来た外国人たちが日本の伝統文化や生活様式が素晴ら

しいと評価したように、他所から来た人間こそがその価値を認めて自信を持っていただ

く必要がある。そうしないと、日本中が画一的な都会になってしまうんです。

 

 都会というところは、専門家、なにかしらのプロにならないと生きていけない、お金

に仕切られた空間ですね。写真を撮る人−−カメラマン、お金を勘定する人−−銀行マ

ンとか……。そうやって自分の仕事を、お金でプロに任せていくことは便利だし楽です

けれど、これに伴って失うものも実はとても大きい。都会人は自分の専門を失ったらア

イデンティティを見失うことになりかねない。父親とか娘であるとかいった家族内の関

係性のアイデンティティは残るけれど、それだけでは人間生きられませんから。「あな

たは何者ですか、あなたは自分の人生の持ち時間とお金を使ってなにに取り組むのです

か」という、人間の原点とそれを支える力量や技が問われているんです。

 

 都会の人たちがそれぞれ、「自前で取り組む」というようなことを切実に考えて都市

をつくったら、ヨーロッパの市民社会になるわけです。そもそもヨーロッパの市民社会

というのは、城壁を造って異民族の侵入に備え、皇帝やローマ法王の権力が及ばないよ

うに抵抗しているうちにできた自治都市でした。日本の室町時代の堺や博多も商人のつ

くった自治都市ですね。

 

 余談ですが、ドイツの中世都市では農奴−−いまでいえば外国人ですね−−それが封

建領主や地主から逃れてきて一年と一日間、その都市にいれば自由民、つまり市民にな

れたんです。

 

 いまの日本には、この自治都市を担う気概を持った「市民」共同体はありませんね。

市民を目指すためには、ムラに来て多少の不便の中で歴史を学び直すことが必要かもし

れません。降った雪を掻かなければ小学生が学校に行けないこの村で雪掻きをやってみ

る、寄り合いや祭りにも参加して一緒に酒を飲む。そういう共同体のメンバーシップと

しての多様な役割を担うことで、お金に換えられない価値観を発見するでしょう。

 

 ムラ社会が嫌だったり差別を受けたからといって都会に移っただけでは、市民の社会

は生まれてきません。

 

 

こころざしとこころいきを忘れない生き方

 

 「飽食の時代」だといわれています。毎日の食卓が、まるでお正月のようです。世界

の各地を見てみますと、確かにこの日本は「ひもじさ」を忘れてしまっています。

「ひもじさ」が蔓延した時代を望んでいるわけではありませんが、忘れてしまってはい

けない。

 

 さらに、日本の社会には「カキクケコ」のカキクはあっても「コ」がない。「カキク

」は金と機械と車で、これらは現代日本のお得意芸ですかられかえっていますけれど、

肝心の「コ」=志がないのです。この村にもタイから花嫁さんが嫁いできていらっしゃ

いますが、そうやってアジアと繋がりができる、関係性が深まれば深まるほど、日本の

金と機械と車がアジアの村々に入っていくことになります。三十年ほど前に日本のムラ

に起こった賃労働と機械化という大きな地殻変動が、アジアに輸出されていくわけです

。だれが自動車を買ったとか、テレビを持っているか、という物質主義が蔓延してしま

うことになりました。

 

 この村に、毎年百人を超える看護学生、医学生さんや社会人をお連れして、村の暮ら

しを学んでいただくことに取り組んでいます。いつも彼らにする例え話に村と電気の話

があります。

 

 村に初めてひとつの電灯を灯したときの電力会社の職員は、自分の職務とやりがいが

一致していたと思います。もちろん村人も大喜びだったでしょう。そして村のすべての

家々に電気を普及させていく、これも何年もかかるけれどやりがいのある仕事でした。

ところが、だんだんと組織が大きくなって個人の思いとズレてくる。例えば、都会の電

力需要のピークに合わせるために、ダムを造って村人の家々を沈める方向に電力会社が

動くような場合です。そこには組織の論理や経済効率はあっても、個人のやりがいや喜

びはないでしょう。

 

 私も拙い技を駆使して、等身大の人間として目の前の人々に役立つことができるかど

うかについて、日々の外来診療で取り組んでいます。往診の際など、こちらも村人から

教わることが多いものです。そういう対人間の醍醐味があるのですが、日本のあちらこ

ちらにあった、そういう古典落語に出てくる長屋での人間関係のような、人情味が消え

ていこうとしている。私は村を訪れた都会の若者たちに、「ムラの自治」の感覚を追体

験してほしい。電灯を最初に村に灯した電力会社の職員の志、等身大の人間の志を忘れ

ないでいてほしい、と話しております。

 

 私が昨年から取り組んでいるのは、北朝鮮の飢餓のために国境を越えて中国領に逃げ

込んだ食料難民、中国政府のいう「飢民」たちへの直接支援です。また、ミャンマー軍

事政権から逃れてタイに来たビルマ人労働者や女性への手助けもしています。そして、

ヒマラヤを歩いて越えてネパールに逃げてきたチベット人たちへも……。そういう人た

ちに対して私が実際にできることは大変小さいのだけれども、それでもなにかできるこ

とはないかと取り組んでいます。

 

 難民の救援の現場に行って感じるのは、私も含めて日本人が、どんなに本で勉強して

も飢えた人々の気持ちはしょせんわからないだろうということです。「ひもじさ」は頭

では理解はできないことですし、腹で理解することも至難だからです。しかし、飢えた

人々がどんな心理状態に置かれるかということを想像できないと、アジアの農山村でボ

ランティアとして手助けしたいものだと日本の若者が希望しても、実際は難しい現実に

突き当たってしまいます。この点で、日本の山の村で日本語で歴史を追体験し、学歴と

関係のない生き方を通してきた村人の知恵とずるさと逞しさを事前に学ぶことが、その

役に立つでしょう。

 

 HIV(エイズウイルス)感染について取り組んだときもそうでしたが、当初、日本

でその感染情況が実際どうなっているかについては、「お上」−−厚生省や保健所が調

査の先鞭をつけたわけではなかった。われわれアイザックや仲間のNPOが日常の支援

活動の中で、多くの外国人労働者や女性の感染者と出会い、生活支援に取り組むことで

実態が少しずつ解明されてきたことです。ですからタイの政府もわれわれの活動を評価

して、表彰していただくことになりました。

 

 日本の一般の方々がなかなかお気づきにならない、つまり行政としても議会としても

動きにくい状態にあることに取り組んでいくことは、苦労は多いのですが、やりがいの

ある仕事です。

 

 HIV感染のときもそうでしたが、裏にどういう深刻な問題が潜んでいるかわからな

い。こういうことは、役所にお任せすることにしてしまったり、お金がないからと取り

組まずに先送りしてしまっていいというものでもないと考え、自分たちで、まず「でき

るところから始めてみた」という経緯があります。

 

 私どもは、お金や名誉のためでなく、「人間として人間の世話をすること」に取り組

み続けますと、世界中のいろいろな所に人種や性別、年齢の壁を超えて友人ができ、あ

ちこちで楽しい出会いがあるということに気づきました。親友のバブは、「お金持ちよ

り、心持ち」と、なかなかいいことをいっています。

 

 人間は弱いものです。本当に悩んだとき、苦しいときに、打ち明けられる友人が何人

いるかでその人の人生の明るさは決まってくるものと思います。自分の胸の中で、そん

な十人の友人の名前を挙げてみてください。その中にアジアの人々、村の方々がどれだ

けいるか、と自問します。もし、何年経っても十人の中に医者と弁護士しかいないとい

うことであれば、私の人生としては、それは失敗なのでしょう。このような「心の十人

のリスト」を毎年、自問しながら作ってみることをお勧めします。

 

 農村の医者としての立場でいうなら、医師としての英語のカルテではなくて、「心の

カルテ」に残る患者さん方がどれだけいるかということです。もう二度と会えないけれ

ど、またお会いしてお話をうかがいたいなあと思い起こす「元」患者さん方のことです

。そういうお付き合いができるためには、普段からお上とお金に執着しない生き方をし

なくては、と日々自戒しています。

 

 「カキクケコ」の「コ」−−こころざしとこころいきを失ってはいけない。さらに、

百姓のように、都会人でもいろいろなことが「自分で」できるようにならなくてはいけ

ない。サラリーマンでも、文章を書いたり介護ボランティアをやったり消防団に入った

り、カルチャーセンターに通ってもいい。いろいろな顔を持つ「怪人二十面相」を目指

したほうがいい。それが自分のアイデンティティに繋がるはずです。

 

 サラリーマン生活を定年で辞めた後、奥さんにくっついて歩く“濡れ落ち葉”になっ

てしまう方がいます。そういう人は、田舎暮らしでもなんでもトライしてみてください

。自分がどのくらい未熟者であるか、大自然の中で人間がいかに小さな存在か、そんな

ことを、一年をサイクルとした農山村のゆったりとした時の流れの中に感じるところが

あると思います。いかにいままで「肩書」で生きてきたかがわかりますよ。

 

 国も同じです。日本は、いまのお金がなくなったら、世界の中でだれがこの国を相手

にしてくれるでしょうか。でも、そうなってしまうのは困るんです、私は。この国を愛

していますから。

(談)

 

 

 

 

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