国民皆保険

すばらしい制度の存続を


10年ほど前、
医大を卒業し南佐久郡臼田町の佐久病院に勤め始めた頃のことである。
当時、バブル経済は崩壊しつつあったが、
信州では冬季五輪の開催が決定したところで、
例外的な投資が続き、活発な経済活動が繰り広げられていた。

高速道や新幹線の着工に伴い、山の中のトンネル工事現場とその周辺では、
中国人やバングラデシュ人などさまざまな国籍の男性が単身で働いていた。
彼らは「飯場(はんば)」と呼ばれるところで寝泊まりしていた。
近辺には必ずスナックがあり、外国の女性たちが働いていた。
彼女たちは、フィリピンやタイから来ていた。

国籍がどうであろうと、人が働いて生きていくのだから、
そして、トンネル工事といった少なからず危険と隣り合わせの現場だから、
当然のように、けが人や病人が出た。
しかし、この異国から働きに来ている人々にとって、医者にかかったり、
生活相談をしたりする場は、当時ほとんどなかった。
隣人・知人として接しているうちにこのことがわかってきたので、
91年末、佐久病院の近所の教会堂を借りて日本語学校をつくり、
「医職住」についての、相談活動を始めた。


結婚、子育て、病気、流産、交通事故、けんか…。
人は様々な日常を営んでいる。
言葉が通じない夫婦の間で子育てをすることだってある。
そうしたさまざまな場面で、何かあるたびに私は呼ばれ、相談相手になった。
ときには国際電話で海外からも相談が来た。
南米のペルーからは、
「甥(おい)が札幌で肺炎で入院したのだが、どうしたらいいか」
という電話がかかってきた。
このときは、札幌の友人の医師の連絡先を教えた。

海外在住の「患者」からの相談もあった。
フィリピンのマニラから「子どもが白血病と診断されたが、救う手立てはあるか」
と尋ねてきたので、「マニラには私の友人がいるから相談しなさい」と答えた。
そうこうしているうちに、フィリピンやタイに住む友人たちが来日し、
日本で働く同国人たちのケースワーカー役を買って出てくれるようになった。

地域に嫁いでいる女性やスナックで働いている女性に、
彼女らの母国語で電話をし、さまざまな悩みを聞き、
相談にのるなどの活動に取り組んでもらった。
タイ政府からは表彰を受け、
南米のボリビアからは、私の名刺のコピーが100ドルで売られている、
とのうわさが伝わってくるなど活動は次第に認知されていった。


こんな活動を通じて、何より印象深く感じたのは、
この日本には、国民皆保険というすばらしい医療保険制度が厳然とあって、
日本人であればとても恵まれた権利状態にあるという発見だった。
日本人でないと……大変なことになる。
90年10月の厚生省の指導で外国人が適用除外された生活保護法では、
もはや救い上げることはできなかった。
明治時代に制定された行き倒れの人々を救済するための法律
「行旅(こうりょ)病人及死亡人取扱法」だけが、
現状では唯一の合法的救済手段となっている。
東京都や神奈川県では公立病院などで活用され、
2、3ヶ月の入院治療費まではなんとかなるようになったという。
県内でも、困難な人々を救うべく取り組む良心的な医療機関であればあるほど、
深刻な事態に直面している。

国民皆保険制度が21世紀も引き続き存続していくことは可能なのだろうか。
今の外国人並みの権利状態の人々が国内に大量発生することにならないかと、
一抹の危ぐを感じている。

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