51 強者のことば

人間扱いされるために


人間には、他者の言葉、ときには「敵の言葉」を喋(しゃべ)れなければ生き残れない
……、
そんな状況があるようだ。
つまり母国語だけでは生き残れない、そんな状況だ。
他者の言葉、つまり「強者の言葉」の存在を最初に感じたのは、
20年前、最初に海外を旅行をしたときの体験からだ。

ドイツで、「外国人労働者」であるトルコ人男性と出会った。
話すうちに、彼は流暢(りゅうちょう)なドイツ語でドイツ人の悪口を連発しはじめた
。周囲を見回したほどだった。
フランスへ向かう国際列車のコンパートメント(個室)で会ったモロッコ人男性は、
フランス語で高等教育を受けたおかげで大学教授をしている、と言った。
それでも「どうしてもフランスには言いたいことがある」と、一晩切々と語った。
ロンドンの下町では、亡命ハイチ人の若者たちが、
自分たちを受け入れてくれたイギリス社会についての複雑な思いを英語で語りかけてき
た。

同じようなことを、その後も世界各国で幾度となく経験した。


海外でのこのような経験から、「日本ではどうなんだろう」と考えるようになった。
当時の私は、大学を中退し、パン工場で働いたり、牧場でアルバイトをしたり、
様々な土地で様々な仕事をしながら世間を放浪していた。
私の中では、日本語は自らのものだ、と考えていたが、
この日本にも、日本語に対して違和感を持ちつつ、
日常的に日本語を使いながら暮している人々がいるのだろう、と感じていた。

キャバレーのボーイとして働いたことがあった。
この時、世話になったキャバレーのオーナーは、在日朝鮮人だった。
図らずも日本で生活する外国人の思いを、
彼にとっては「他者の言葉」である日本語で聞くことができた。

ドイツで会ったトルコ人労働者が、
ドイツ語で「このドイツ野郎」と言ったのと同じようなことを、
やわらかな表現ではあったが、
「日本人ではない自分たち」の思いとして日本語で私に伝えてくれた。

このオーナーには、ずいぶんと学ばせてもらった。
同じ様なことは、日本人同士でもある、と教えられた。
当時はまだフィリピンの女性がやって来る前の時代だったので、
キャバレーで一緒に働いていた女性たちの何人かは沖縄から来ていた。
オーナーは、この沖縄から来た女性たちの持つ「違和感」も代弁していた。


――植民地にされた国々では旧宗主国の言葉を、
そうでなくても、近隣の強国の言葉は話せて当然――。

これが、若い私が感じた国際的な言語秩序の一端だった。

旧宗主国として存在するイギリス、フランス、そして超大国アメリカ……。
国連職員になる要件として、「弁護士なり医師なりの専門職資格」だけでなく、
国連公用語(英、仏、中、ロシア、スペイン、アラビア語)の2カ国語で
「冗談が話せるだけの習熟」……と聞いたことがある。
本当のことどうかは知らない。

「地球上で人間扱いされるための要件は?」というジョークだとしても、
一般的な日本人には、かなり「きつい」ハードルだろう。

日本人が、英語をはじめとする欧米の「言語」へ抱いている意識は、
世界の平均像からは、ずいぶんずれている、と言わざるを得まい。


旧ソ連の旅では、カザフ人やモンゴル人が、上手なロシア語で、
ロシア人にへの違和感を私に語りかけた……。

特に思い出深いのは、ドイツで出会ったトルコ人も旧ソ連で会ったモンゴル人、
カザフ人もドイツ語やロシア語で「黒い目ですね」と私に言ったことだ。
「同じ黒い目をした東洋人の仲間」ということで私に話しかけてくれた……。
しかし私は当時、自分がアジア人であることを忘れていた……。


海外にも出かけた。当時のソ連で、少数民族の人々と語り合った。
中国大陸でも辺境を訪ねた。当時はまだ鉄のカーテンがあった時代なので、
入れない国もあったが、できるだけ農村や漁村を歩いてみた。


「背中で人生を語る」ことも可能かもしれないが、
やはり自分のことを伝えるためには、態度だけではダメで、言葉での説明が必要だ。
誠意というものも、やはり、言葉を尽くした上で伝わるものだろう。 

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