49 「国際化」

かけ声にかすむ 文化的差異


日本語の「国際化」という言葉は、80年代から盛んに使われていた。
意味はよくわからないが、格好いい響きだった。
定義のない、意味不明な言葉であればあるほど、魅力的なのかもしれない。

同じ時期、韓国・ソウルの街では「世界化」という言葉がよく見受けられた。
こちらもどんな意味なんだろう、と思って韓国の友人に尋ねた。
ソウル五輪を控えた友人たちは、素朴に、「いいことなんだ!」
と言っていたような記憶がある。

たとえばこんな風だった。
「発展途上国・韓国が、先進世界へ仲間入りすることだよ」
「日本人である君と、こうやって交流し酒を飲むのも世界化だ」
……何やら喜ばしい歓迎の言葉ではあったが、依然、意味不明だった。


「国際化」を英語にしてみよう。

無理やり動詞にして、インターナショナライズとする。
米国人に聞くと、これは「国際共同管理する」との意味だという。
例えばスエズ運河を、英国とフランス両国の軍隊が、
運河沿いに展開し、駐留・占領している光景を想像してみたらいいのだそうだ。
ナショナライズであれば、スエズ運河を「国有化する」ことを意味するのだから、
その反対語というわけだろうか。
動詞にではなく形容詞化すると、今度はインターナショナルになり、
昔の革命歌になってしまった。


仕方がないので「国際化」ではなく「国際人」に置きかえてみて、
「国の際(きわ)の人」と読むことにしたら、それなりにわかる。

ある国について、常に「中心」にではなく「辺縁」に立って物事を考える人……、
つまり、「国益」といったものを振りかざすのではなく、国外の諸事情にも配慮し、
自国民以外の気持ちや本音も理解できる人――とでもなろうか。

しくじると、「際」から外側に落ちて、「非国民」にもなりかねない、
そんな人なのかもしれない。
しかし、国益に凝り固まっていない、柔らかい頭をもった
「国際人」同士が話し合ったとすれば、外交もスムーズに行くだろう。

「際」の人々には、会社益ばかりを追究しない社際人や、
省庁益ばかりを考えない省際人、も入るのではないか……。


90年代も半ばになると、またまた変な言葉「グローバル化」が、
頻繁に聞かれるようになった。
あえて訳せば「地球規模化」とでもしようか。
国際化とはだいぶニュアンスが異なっている。

元々の英語「グローバライズ」は、90年代になって突然、
冷戦後の世界を語る時に欠かせない日常語になった。
この言葉には、電化製品の規格のように「世界を均質化していく」
という意味あいが含まれている。

「均質化」とは実は、恐ろしい言葉である。
世界規模化するために、あらゆる文化的な差異までも踏み潰(つぶ)しながら、
人類の同質化が進行するとしたら、まったくもって、格好いいどころではない。
グローバル・パラドックスという表現さえ登場したように、
グローバル化が進めば進むほど、かえって世界の「断片化」が進む――
というパラドックス(逆説)も生まれているようだ。

世界中で頻発する民族紛争、宗教対立の一因には、
進行するグローバル化への反発反動もあるような気がしてならない。
国際化という言葉の裏の部分まで教えることこそ、
21世紀を生きる子どもたちへの「国際化教育」なのではないか。

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渋沢敬三の、弟子の宮本常一への教えを思い出した。

「大事なことは主流にならぬことだ。
傍流でよく状況を見ていくことだ。
舞台で主役をつとめていると、多くのものを見落としてしまう。
その見落とされたものの中に大事なものがある。
それを見つけていくことだ。」

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