48 「政治」の本質

平等に負う 合意形成の技術


地域の直接の民意が、「国策」をも問い直す時代が到来したのだろうか。

国策として原発を増設・推進しつづけるのか、それともゆっくりと「脱」原発へ向かう
のか……。
新潟県刈羽村で行われた今回の「住民投票」で、ひとつの方向が出たように感じた。

2年前、茨城県東海村で起きた、日本の原子力利用史上初の直接・死亡事故は、
なんと「臨界事故」だった。
この前代未聞の惨事の後も、国と電力会社は、
「原子力発電は基本的に安全であり、最も安価であって、
地球温暖化の主要原因である二酸化炭素を出さない」
ということを理由に、原発を推進してきた。

新潟県でさまざまな話題を提供している原発群は、実は東京電力のもので、地元・新潟
にではなく、
山々を越えて、4000万人余が住む関東へ超高電圧のまま電気を送っている。
新潟県内には、というと東北電力が電力供給をしているのだ。
つまり新潟の人々は、首都圏のために、庭先に原発を設置しているのだ。

電気の供給については、この手のアクロバティックな手法は珍しくない。
首都圏に限らず、我が信州も、静岡県にある中部電力浜岡原発から、山越え供給を受け
ている。
確かに、電気は「ため込むこと」や「蓄えること」が出来ない。
国や電力会社には必要なところへ、必要な量を供給する「責任」があるとはいえ、
ずいぶんと面倒なことをしているものだ。

山々を越えてやってくる電気。
莫大な費用をかけて送配電施設を建設せずに、
需要のあるところで、コンパクトに発電した方が効率はいいはずだろう。
そもそも、原発がそんなに「安全」なら、
大消費地である東京の海にこそ原発群を建てれば送電ロスもなく合理的であろうに……。
東京湾に原発がないという事実は、国や電力会社が言うほど「原発は安全」ではない、
と考える理由にはなるだろう。


1970年ごろから運転を始めた日本の原発は、2010年ごろから寿命を迎える。
原発施設は、寿命を迎え原子炉が廃炉となってなお、
放射性廃棄物の塊として、千年以上も「管理」が必要だという。
当たり前のことだが、廃炉は1ワットの電気も生み出さない。
それを「墓守」よろしく千年間も管理しなければならない。
千年以上も、子孫の手を借りて管理し続けなければいけないようなものが、
果たして「最も安価」といいきれるのだろうか……。


原発に限らず、産廃処分場やごみ焼却場、
米軍基地も含め「迷惑施設」の立地・建設は全国で問題となっている。
これらの諸問題が本質的に問うているのは、
「既存の仕組みを壊さずに全体が存続するため」に
「誰が」「どこまで譲るべき」で、
それがどこまで「公平・公正」たり得るか……、
といった「価値観」、つまり一種の「哲学」ではないだろうか。

「平和で豊か」に見える私たちの日常生活は、さまざまな事象に下支えされている。
富や利益といったプラス要因の公平な分配よりも、
損失や危険といったマイナス要因の平等な負担は、さらに難しい。
「だれがどこまで譲るべきか」という合意形成の技術こそ、
現代に求められる「政治」の本質ではないかと思う。

長野県ではすでに「脱」ダム宣言、「脱」記者クラブ宣言がなされた。
この後、私が予測するのは「脱」ゴミ宣言だ。
一般ゴミ、産業廃棄物、そして核廃棄物……
シビアで危険な、長丁場となる重大テーマとなるだろう。

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