転がる力

人・馬・車・・・輸送に隔世の感


山の村に暮らしていて、春が来て、暖かくなるとうれしいのは、
家の前の畑でさまざまな野菜が採れるようになることだ。
お金を出して買うのではないところがいい。
家庭菜園で日々大きくなっていく野菜を見ていると、とても得をした気分になる。
しかしもちろん主食のおコメは買うのである。

その昔、コメが採れなかったこの村。
機械力がないので道路の改良ができず、
運送手段も馬力と人力に頼ったこの時代、飯米(はんまい)輸送のご苦労は、
現代人には想像もつかないものだったようだ。


一駄荷(いちだんに)という言葉は、馬一頭の運ぶ荷物を指した。
馬体の左右にバランスをとって、コメなら一俵ずつ、
炭なら三俵ずつを付けることが出来た。
このコメ俵で2俵、炭俵なら6俵の量のことを「一駄荷」と呼び、
コメは佐久平から村に運び上げ、炭は山から里に運び下したのだ。

では、一駄荷は、どのくらいの重さだったのだろう?
尺貫(しゃっかん)法という日本古来の単位では、一尺は長さの単位で30センチほど
、一貫とは重さの単位で3.75キロだった。

コメには16貫目(かんめ)の俵を、炭には5貫目の俵を使用したとされるので、
コメ俵一俵の重さは60キロ、炭俵一俵は19キロほどだ。
つまり「一駄荷」は今の言い方では、120キロほどの重さになろう。

馬は、背負ってでは、炭俵の6俵分30貫しか運べない。
しかし、同じ馬であっても、車で引かせれば、その7倍近い炭俵40俵、
つまり200貫目も運ぶことができたという。
人間も、持ち上げることさえできないような重いものでも、転がせば動かすことができ
る。
馬は荷物を転がすことはできないが、力はあるだけに、
確かに車を使えば、重いものでもたくさん運べただろう。

しかしながら、4000年前にメソポタミアで発明された車輪(と軸受け技術)の恩恵
が、
この村に届いたのは、20世紀も大正時代になってからだった。

「便利な車輪」の能力を十分に発揮させるには、当時の道路事情がつらすぎたようだ。
明治末年までの村の道は、幹線道路であっても馬のすれ違いがやっとで、
とても車は通らなかった。
木材もそのままでは運び下せず、山で板材にまで引いて、
それを馬の両脇(りょうわき)に縦につけて街に下したのだそうだ。


「運送」と呼ばれる、一頭の馬で引く荷車が小海町からやって来て、
村内でも運用することができるようになったのは、大正の初めのことだった。

それでも村内の各所には、急な坂、狭いがけっぷち、
馬の蹄鉄が滑ってしまう岩場などの「難所」があって、
近所の人々が呼ばれては、馬を助けて荷車を押し上げたものだったという。
このような場所では、馬が大怪我(けが)をしたり、
がけから落ちて死んだりすることがあった。

現代の乗用車は百馬力程度の出力を有し、化石燃料を燃焼させて
馬30頭分のパワーを発揮し、輸送面での困難を一気に解消してみせている。
隔世の感とはこのことだろう。

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