結核

いまだ残る「社会の病」


ハンセン病は、かつて「らい病」と呼ばれ、事実と異なって「不治」とされた。
国家が強制隔離政策を行い、患者と家族を、多くの偏見と差別で苦しめてきた。

同じような偏見差別にさらされた病気がある。
結核である。
ハンセン病と同じ、マイコバクテリウム属の菌によって引き起こされる慢性感染症だ。

昭和初年に「国民病」と呼ばれ恐れられたのは、「社会の病」結核であった。
結核は肺や腎臓ばかりでなく骨関節も侵し、病変はカリエスと呼ばれる。
特に背骨が多くやられ、患者は「寝たきり」状態にならざるを得なかった。


臼田町にある佐久総合病院の玄関には「我ら結核とたたかいし」との石碑がある。
先日、この石碑を設立した「白樺(しらかば)会」の50周年記念総会に出席した。
「白樺会」は、当時多くの若い命を奪ったこの結核性脊椎(せきつい)カリエスにかか
った
「元」患者さん方が、自主的に組織運営して50年になる患者会だ。

半世紀前の佐久病院の取り組みが、年老いた「元」患者さん方によって語られる。
地域での差別偏見、ギプス・ベッドの思い出、
信州・佐久で新たな手術による治療法が開始されたとの朗報……

「癒(い)えたらば この忌まわしき ギプス床 天竜川の 淵(ふち)に捨つべし」

「胸椎(きょうつい)三番目のカリエスです……と宣告されてしまった。
私の驚きようは、まったく言語に言いつくせない悲しみと、驚きであった。
昔からカリエスは不治の病と聞かされ、不具者で一生を終わるものと聞かされていた。
大きな涙がほおを流れた」

「私たちカリエス患者は、ほとんどが絶対安静で歩行ができないので、
隣部屋の人でも、名前は知っていても顔を見たことがない人が多い。
そこで私たちは毎年、自分の写真をはった”療友年賀状”を全員に回覧することにして
いる。」
(50周年特集誌「せぼね」より)


……私は敗戦の翌年に佐久病院に就職しましたが、
当時この地方では、肺結核は結核菌の感染によって発病すると考える人よりも、
「肺病」と呼んで(血統で)「とうを引く」と信じている人々が多く、
かたくなに怖がり、毛嫌いしていました。
患者さんを出した家の前を通るとき、口に手をやって息を止めて走ったりして、
娘さん方の縁談にも差し支えがあったのです……

差別にさらされた患者たちを、献身的に看護した当時の病棟婦長の手記である。


今も、油断はいけない。
結核は現在も、年間発症者6万人、死亡者3千人の日本最大級の感染症である。
世界全体では毎年200万人が亡くなっている。
お隣の中国では年間26万人、1日あたり700人が犠牲になっている。

700人といえば、飛行機の乗客乗員なら約3機分だ。
1つの国で1日に飛行機が3機も墜落したら、それは世界中を駆けめぐる大ニュースに
なる。
ところが感染症によって、毎日毎日はるかに多く発生している死亡者については、
なぜかニュースにはならない……。
偏見は無知の産物であり、無知は情報隠匿の結末であるという。


いつの時代にあっても、医療者が「最前線で、患者とともにあること」
の難しさを、改めて再認識させられる。

inserted by FC2 system