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           昔語り

 

                忘れたい記憶 語る瞬間

 

寝たきりで目の見えない高齢の方がいた。

すっかり呆(ほう)けてしまっていて、

うんちやおしっこが垂れ流しになる日があった。

しっかりしていて、「昔語り」をする日もあった。

 

旧満州(現在の中国東北部)からの引き揚げ者だった。

御本人と、本人を介護する高齢の娘さんからポツリポツリと伺う。

「わしゃ、むかしもんだから……、ようわからんだども……」

とお年寄りは語りはじめるのが常だった。

 

 

分村して集団で満州にむかう以前、

山の村では、電気はもちろん水道もない生活だった。

村内でも「電気のきていない所」と馬鹿にされていたそうだ。

信じられないほどの貧乏暮らしで、満州行きも、

海外で一か八かの運試しをするしかないと思ったからだ。

 

満州の入植地での生活は、考えられないほどに恵まれていた。

生まれて初めて白米を食べ、初めて自分の土地というものを持てた。

しかし「入植した」はずなのに、広い土地はなぜか、

既に開墾してあった。

 

やがて、そのからくりがわかるようになる。

中国人たちから武力でとりあげた開墾地を、

日本人向けに提供し直した土地だったのだ。

 

 

農業機械はなかったが、使用人がいた。

朝鮮人と中国人が働いていた。

朝鮮人には米で、中国人には麦で給料を払った。

子どもたちの友達にも朝鮮人や中国人がいて、

みんな混じって各国語でしゃべりながら、遊んだ。

 

―― 紀元は二千六百年、ああ一億の胸は鳴る。

 

ところが「王道楽土」「五族協和」のはずなのになぜか、

列車や駅が次々に「馬賊」に襲撃された。

身代金を求める拉致事件の話まで伝わってきて、恐ろしかった。

中国人がみんな「人さらい」に見え始めたそうだ。

「匪襲(ひしゅう)」「討匪行(とうひこう)」といった文字が

新聞紙面に繰り返し登場したが、一向に騒動は収まらなかった。

「満蒙は日本の生命線」――

だれのための生命線だったのだろう、と今になって思い返すという。

 

 

別の、引き揚げ体験をもつ人。

自宅の神棚に写真が一枚。

三歳で収容所で死んだ末娘の写真だという。

 

極東ソ連軍の侵攻を受け、

長野県をしのんで名付けられた東安省「千曲郷」から山の中を西へ逃げた。

善意の中国人がいて、何とか飢えずに済んだ。

夜だけ歩き、散々迷いながら、やっと満鉄線沿線にたどり着いた時は、

生き延びた……、と思ったそうだ。

 

敗戦後、ソ連軍に捕まってからの、収容所での生活はひどかった。

発疹(ほっしん)チフスで、周囲の子どもたちが次々と死んでいった。

 

長い夜は、暗い危険な時間帯だった。

零下二十五度の冬、亡くなった人の体が、

室内なのに、たちまち凍ってしまう。

そうすると、亡くなった人の体についたシラミが、

周囲の暖かい方、つまり生きている人の方へ逃げ出して来る。

生きている人の体へ乗り換えてくるシラミたち。

音にならない音は、恐怖そのものだった。

しかしそれはまた、「朝になれば、余分の衣類がもらえるな」

と聞こえる音でもあった……。

 

 

人には「思い出したくない記憶」がある。

しかし、語り出したくなる、そんな瞬間もあるようなのだ。

私には、お聴きすることしか出来ないのだが。

 

 

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