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         百の能力を持つ人々

 

                  貴重な知恵伝わらぬまま

 

苦しかったゆえにこそ、近所同士が助け合った日々、

「山に生かされた日々」があった。

それほど昔の話ではない。

数十年前までは、どこにも当たり前にあったことだ。

 

ムラのご老人方の語りを通じて、

そんな「山に生かされた日々」を追体験させていただいている。

追体験することで、次第に、

「ものがたる」ご老人自身への尊敬の気持ちが心に湧いてくるのを感じた。

 

都会での病院医療とは全く異なる、ゆったりとした時間の流れと、

ご当人の「ものがたり」。

これらに接することで私は、「生きる」ということについて、

ご当人がどう考えているのか、について伺い知ることのできる、

大変貴重な機会に立ち合わせて頂いていることに気づかされた。

 

 

みんな長生きしてほしいけれど、

人はいつまでも生きられるわけではない。

とすれば、どう看(み)取られるのか、

このことは一人ひとりにとって大変重要な選択となるだろう。

 

ムラのご老人方は「死に方の作法」を心得ているように見える。

すがすがしさを感じてしまうことさえある。

もちろんこのような感慨は、

医療者側の勝手な想い込みにすぎないものだ。

しかし、こと入院にあたっては、

身辺をキチンと整理して臨む、

ムラの老人の生きる姿勢に感ずるところがあった。

 

非常に魅力あるこの山の村。

しかし700年続いたこの相木郷は、

いま700年ぶりの急速な変貌を遂つつある。

それは、「百の能力」を持つ人、

すなわち言葉通りの「百姓」が少なくなってきた、ということだ。

若者が「山に生かされていた日々」のことに関心を抱かなくなった。

若者がムラに残らない。

残ってもヨメさんが来ない。

来てもムラにではなく、街場(マチバ)に暮らす方を好む……。

責めているのではなく、むしろ当然のなりゆきでこうなっていく。

賃労働と機械化の導入で、ムラの人間関係は急速に変貌した。

 

 

ご老人をひとり「お見送り」することで、

小さなムラは一冊の歴史の本を失ったかのように変貌する。

大きな図書館と違って、小さな図書室では、

一冊一冊の本の存在感が大きいのだ。

 

「百の能力」が伝わらずに消えてしまった。

もっと聞き取っておけばよかった……。

あの人なら、こんな事態にどう対処し、

どう助言してくれるだろうか……。

 

現代社会の変化のスピードが激しく、

なかなかご老人の知恵が生かされる場面が少なくなったことは、

確かにそのとおりで、残念なことだ。

 

 

「医師」である私との出会いそのものが、

なにかしらの病気やけが、痴呆症状の出現等をきっかけにしている。

それだけに、残されている時間は、

そう長くはないことが多い。

 

私の仕事の一環としての在宅での看取りによって、

或いは私が紹介した入院先でと、

人は時間の経過とともに、やがて、

記憶の中に引っ越ししていってしまう。

 

医師として記載する診療所の英語のカルテにではなく、

私自身の「心のカルテ」に、強烈な心象を残して、

「百の能力を持つ人々」は去って行ってしまう。

喪失感は、何とも言えない程に大きいのだ。

 

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