「源流の発想」21世紀、ムラ医療の現場から


金持ちより心持ち、まえがきに代えて


この「金持ちより心持ちになろう」というモットーは、もちろん、
私に金持ちになる気力と能力がほとんど無いことを前提に、
やっかみで言っているのである。
そして心貧しい私であるからこそ、周囲の心豊かな人々にあこがれる思いで、
「心持ち」に、もしなれるとすれば、
それはお金の関係ではない友人をたくさん持っていることなのではないか、
と強弁しているのである。

山の村の医師住宅、居間にある金魚鉢の中で、金魚はクルクルと泳いでいる。
なぜも、こんなに楽しそうなのだろう? 
クルクルまわり続けるしかない、とも言えようが、しかしうれしそうに見えている。
金魚の脳は、三十秒間しか記憶力が保たないので、
周囲の景色が毎周毎周いつも新鮮に映って、ウキウキしているのだ。
そう聞いたことがあるが、本当だろうか?

戦後の日本は、カネ・キカイ・クルマ・ケイタイ・コンビニの
「カキクケコ」に代表される豊さの拡大を目指し努力を結集した。
小さかった金魚鉢はどんどん大きくなって、目新しいウキウキ刺激が人々の心を捉えた。
戦後の社会変化は、高度経済成長に代表されるように
「個人」より「組織」の力に拠るところが大きかった。
しかし、「組織」というのは、必ずしも望ましい成長と変化だけをもたらすわけではない。
 ……組織は成果を挙げるにつれて、内部完結の錯覚が芽生え、
視野狭窄になるとともにマンネリ化し、他方、閉鎖的となって排他性さえ帯び、
内部対立を醸しつつ、生産性が急激に落ちる……。
こんな立論もある。

21世紀に入り、既存の大組織は経済グローバル化の大波をかぶりつつある。
人間は記憶力が強いので、金魚のように、
いつも新鮮な幸せ感に身を浸して生ききることはできないだろう。
だからこそ、金魚鉢から一歩離れて、つまり、
日本の「外」との対比、日本の「過去」との対比で、現状を考え直してみなければなるまい。

考えてみよう。
東京だけで一日に500万食の残飯を出し、
日本全体では一日に2000万食分の食べられる食材を廃棄している。
そんな今の日本人の暮らしがある一方で、
地球上の1年間の餓死者は2000万人規模だ。
「日本の一日分は世界の一年分なのだ」と感じ、
ヤスパース的な罪(「責罪論」1946年))を意識してしてしまった。
また、「溺れるものはナイフをもつかむ」 いうフィリピン民衆のことわざも想い出した。

一方、村人と話していて、今への戸惑いを伺うことがある。
「学問もねえからようわからんだども……
おまんま食って、いつでも食べたいときに食べられる。
こごとがなくて、うちじゅうにけんかがなく、気楽だ。
いえでよく寝て、あんどに暮らせる」
――「幸せなんだね」――
「(今が)あんまり幸せすぎて、いったいどういうことだ、と考えてしまう……」。

それにしても、教育だ、勉強だ、学習だ、とはいっても、私の大きな不安と不満は、
現状が「教えられたことをただ覚えるだけ、そして正解を早急に求めすぎる」点にある。
逆に、「ちがい」と「まちがい」を大切にできるような教育観こそ大事なのではないか。
実に「ちがい」と「まちがい」が許されるような学校空間が今こそ求められている。
寛容な雰囲気は日本社会全体で渇望されていると感じる。

「人はみんなそれぞれ『ちがい』ます。
それでおかしくないし、世界は多様で、多民族で多宗教で当たり前だし、
それを押し出しても決していじめられたりしない、
ちがっていることこそ21世紀には価値になる……。
『まちがい』もそうです。
誰も決してまちがえたいと思って取組むわけではないのです。
まちがいかもしれないことであっても、言ってみて、やってみて、試行『錯誤』して、
その上でディスカッションすることこそ新しい豊かさなのだと思う。
決しておかしなことではないよ」と言ってみたい。

そして、教育に限らず、「人間として人間の世話をすること」こそ「ケアの本質」であ
り、いつも「専門家として」だけでなく、「人間として」人間のお世話をすることに現場で
取組みつつ、しかも(欲張りにも)「広い視野」と「低い視点」の両方をめざして生きることで、
私たちの人生が暖かく、より豊かになっていくと確信したい。

最後に、親バカにも、小学校1年生の娘の作文「おとうさんのこと」を掲げる。

おとうさんのことをはなします。
おとうさんは、せかい1かっこよくないおとうさんです。
おとうさんは、1日2回は、おならを「ブー」と、ならします。
おとうさんは、おかあさんのことがすきなのに、すきっていいません。
なのでおかあさんは、おとうさんのきもちがわかりません。
おとうさんは、わたしたちがねてるあいだにおかあさんに、「かすみ〜」といっています。
おもしろいです。
おとうさんは、あたまのまんなかがはげています。
おとうさんは、ごろうがいると「ごろごろごっこ」をしてあそんでくれます。
おとうさんがわるさをすると、うちのかぞくはすごくおこります。
おとうさんは、わたしたちがたべてるものをよこどりをします。
わたしは、おとうさんのことがすきでもきらいでもありません。
ごろうは、小さいときに、おとうさんのことを「ブー」といっていました。
わたしは、小さいときに、「さる」といいました。
おにいちゃんの小さいときは、「バイキンマン」と、いっていました。

ついでに、テレビの感想文も書いてもらった。

テレビで見たことを書きます。
テレビで赤ちゃんがうまれるところを見ました。
わたしはおもいました。
赤ちゃんをうんでいる人もがんばっていました。
赤ちゃんもがんばっているとおもいました。
おいしゃんさんも、がんばっていました。
わたしもこうやってうまれてきたとおもいました。

                  
本書は、二〇〇〇年五月十一日から二〇〇一年十二月二十日
まで、朝日新聞・長野県版に「風のひと  土のひと」というタイトルで、
週一回連載した記事を書籍化にあたって編集したものある。
連載中は板画(ばんが)担当の森貘郎氏、そして長野支局の鵜沼照都、
佐藤徳仁両担当記者には大変お世話になった。
この場を借りて、あらためて御礼申し上げたい。

二〇〇二年晩秋の信州・南相木村診療所にて    
                                      
           色平哲郎

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